「まだいたのか」
東は緩慢に首を動かし、呆れながら言った。かすかに乾いた笑みを添えて。どことなく負けを悟った武士、あるいは棋士のような雰囲気だ。当然ながら葵には何故入らないのかという疑問が浮かぶ。その答えは直後に判明した。
誰かがすすり泣く声が聞こえる。もちろん、この場に涙を流している人間はいない。
「息子だ。お前たちが来る少し前に帰したはずだったんだが……」
母さん。
起きてくれよ。
置いてかないでくれよ。
死んじゃ駄目だ。
俺、まだなんにも親孝行出来てないんだよ。
何度も何度も同じ言葉を繰り返し、鼻を啜り、時には嗚咽で言葉を紡ぐことを中断し、それでも話しかけることをやめない中学生の男の子。そうしなければ母親が死んでしまうと思っているかのように。あまりにも痛切な慟哭は聞いているだけで葵の鼻の奥に鋭い痛みを走らせ、目頭を熱くさせた。
葵の母親は健在で幸いにも大病や大怪我に見舞われたことはない。ましてや生死の境を彷徨うなんてこともなかった。だから漠然と、親はいつまでも変わらずそこに居続けるのだと根拠もなく思っていた。実際にはゆっくりと、それでいて確実に老いていくのに。髪に白いものが増え、痩せ細っていくのに。
だがそれはそれで心の準備ができる。いつか訪れる別れに備えることができる。しかしこの家族はある日突然日常を奪われた。心構えの猶予すら与えられずに。
次回更新は1月3日(土)、11時の予定です。