ルソーの主張は、道徳に関わるものであるが、少し敷衍(ふえん)するなら、筆者が直面する悩みとも無縁ではない。道具の進歩は、場合によっては、人間の技量の退化を伴なう。それでよいか、という問題があるのだ。
オートマチック車が普及して、多くの人がオートマチック車しか運転できなくなるのは、ある種、人間の技量の退化である。しかし、それは通常問題ではない。なぜなら、多くの人にとって、オートマチック車に乗るのと、マニュアル車に乗るのと、もたらす結果が同等だからである。
一部の職業的ドライバーにとってはそうではない。結果が違う。だからこそ、彼らは高い技術を保持して、マニュアル車を運転するのである。
ガスコンロが普及すれば、かまどを使う技術は退化する。それも、通常問題ではない。ガスコンロによる調理と、かまどによる調理と、もたらす結果が同等であるなら、ガスコンロがかまどを駆逐しても、何の問題もない。
筆者のガステーブルはどうだろう。古いガステーブルと新しいガステーブルと、両者による調理の結果が同等になるのであれば、問題ない。しかし、(焦げた)餃子が焼けないのである。さすれば、両者の結果は同等ではない。
新しいガステーブルが古いガステーブルを駆逐すると、それは問題の多い退化をもたらすことになるのである。ほとんどの家庭で(焦げた)餃子が作れなくなるからだ。それは由々しい家庭料理技術の後退だろう。