二 清水の爺ちゃん高校の先生になる
清水の爺さんは、清水慎太郎(しみずしんたろう)という元(もと)高校の生物(せいぶつ)の先生だった。
子供の頃から植物が好きだった。
そのきっかけは、信州(長野)で農業をしている両親の一人っ子として生まれた慎太郎は、春になれば山菜採(さんさいと)り名人といわれた祖母(そぼ)のキヨノ婆(ばあ)ちゃんに連れられて、学校が休みの時には山に入り山菜を採(と)りに行ったことからだった。
キヨノ婆ちゃんは、歌の好きな人だった。台所仕事(だいどころしごと)をしながら、ラジオから流れてくる流行(はや)り歌に合わせて大声で、
「~♪」
と歌っている抜底(そこぬ)けに明るい人柄(ひとがら)の持ち主だった。
一九四五年(昭和二〇)太平洋戦争(たいへいようせんそう)に敗れ、国土が焦土(しょうど)と化(か)した。それでも、敗戦の屈辱(くつじょく)の中、飢(う)えや数々の制約(せいやく)などの長い苦しみからようやく解放(かいほう)され、安堵感(あんどかん)からホッとする人々も多かった。
苦しみの中に打ちひしがれた人々に生きる勇気と希望を与えたのが「リンゴの唄」や「みかんの花咲く丘」の歌だった。歌、音楽の力は凄(すご)いものである。
特に、キヨノ婆ちゃんはこれらの歌と、一九四七年(昭和二二)に発表されたばかりの「東京ブギウギ」をラジオで聞いてから大好(だいす)きになった。
(偉え人たちは、何でバカな戦争を起こしちまったんだ。歌でも歌っていれば戦争などは起こるはずもないのに)
農作業に行きかう村人も、キヨノ婆ちゃんの歌声が聞こえてくるとそれだけで、
「まあ、いつまでも元気なこと」
と、嬉(うれ)しくなり笑顔(えがお)が生まれてくるのだった。
長い冬の眠りから覚(さ)めた山は、コナラ・ミズナラ・ミズキ・カエデなどの落葉樹(らくようじゅ)の木々(きぎ)が競(きそ)うように芽吹(めぶ)き、ところどころにアカマツの緑が映(は)え山々が鮮烈(せんれつ)な歌を唱(うた)っているようだった。
山は、躍動感(やくどうかん)に満(み)ち溢(あふ)れていた。
樹下(じゅか)にはカタクリやニリンソウなどの花が一面(いちめん)に咲いていた。
婆ちゃんは、そんな光景(こうけい)を孫(まご)の慎太郎に見せながら、山菜が採れる地聖(せいち)に連れて行った。
山ウド・ワラビ・ゼンマイ・モミジガサ・ヨブスマソウ・イラクサ・ギボウシ・コゴミなどの山菜が環境適地(かんきょうてきち)で群生(ぐんせい)していた。適地(てきち)でないと思われるところには、空き地があったにしても、これらの山菜は全く生えていなかった。他の野草(やそう)が我(わ)が物顔(ものがお)に生えていた。
特に、コゴミや正夫の好きなシドケと呼ばれるモミジガサの群落(ぐんらく)を発見(はっけん)した時には、「ウワーすげーや」と声が出た。
次回更新は12月31日(水)、11時の予定です。