天才の軌跡⑥ チャールズ・ディケンズと悪の萌芽

ディケンズによる初期の作品に、『ピクウィック・ペイパーズ』という小説がある。郷土ピクウィックを会長とする、ピクウィック倶楽部の面々が大活躍(?)するユーモア小説で、とてつもない配語法でしゃべる詐欺師のジングル氏や、強いなまりを持つ従者のサム・ウィンケル、彼の父のトニー・ウィンケル(この二人は自分たちの名前をヴィンケルであると信じてうたがわないのであるが)等が読者を充分に楽しませてくれる。

彼の出世作であった『ボズによるスケッチ』に継ぐ『ピクウィック・ペイパーズ』の成功は彼を一躍流行作家に押し上げたのである。彼の人気は、現代の流行作家たちの及ぶ所ではなく、当世流な感覚でいえば流行歌手ほどの人気があった、と言ってもよいだろう。

彼の名声は大西洋を越えており、一八四二年に渡米した時、彼は行く先々で大歓迎をうけ、友人に「私がここで歓迎される有様を伝えるのは不可能だ。この世のいかなる王や皇帝もこれまでこれほどの群衆の歓呼をうけ、つきまとわれたことはないであろう」と手紙に書いている。

そして多くの若い女性達は彼の髪を欲しがったと言われている。また、後年彼が自身の作品を劇場などで朗読すると、観客は彼と共に笑い、あるいは泣き、朗読の依頼は遠くオーストラリアからもきており、当時の女王も彼の作品を好んでいたことが知られている。

このように広汎な読者層を感動させたものは何であろうか。私は、『ピクウィック・ペイパーズ』にこれが明確に表れていると思うのである。結論から先に書くと、ディケンズは、『アーサーの死』を書いたマロリー卿及び、シェイクスピアが書いたのと同様の主題すなわち、父親の喪失を描いたのである。

『アーサーの死』や、シェイクスピアの四大悲劇と比べると、ディケンズの作品では悲愴さがうすれている。その代わりにユーモアが表れてきている。言い換えるならば、この時代の人々は、父親の喪失を悲しみつつも、それに打ちのめされることがなくなりつつあったのではなかろうか、それ故、人々は、ディケンズの小説に強い共感を覚えたのではないだろうか。

『ピクウィック・ペイパーズ』の中の父子関係を見てゆくと、一番目につくのは、サム・ウェラーと、トニー・ウェラーの関係である。サムの父であるトニーが初登場するのは居酒屋である。

彼らは二年以上も会っていないので、二人はたがいの居場所さえ知らないという設定になっている。そしてトニーがすぐに持ち出す話題は彼の再婚生活の困難である。

この父は息子にどのように暮らしているのかとたずねることもなく、未亡人と再婚したことをくやみ、次に子供の教育について一席ぶつのである。彼によると教育とは「小さい時から家から追い出して、仕事をさせることでさあ」(訳は著者)と言い、「この子の教育にも色々と心配したものですぜ」とピクウィック氏に言うのである。

この父が子供に与える忠告も大変なもので、「もしおまえがな、五十すぎるほどになって結婚するような気持ちになったらな、相手がだれだってもな、自分の室にとじこもって服毒しろ。首吊りは見ぐるしいからな、服毒だ、服毒にかぎる」「そうすれば後でよかったと思うぞ」とひどいなまりでサムに言うトニーは、父親として完全に失格しているのである。

そしてこの父は髪結いの亭主的な存在であり、彼の妻には男ができている。ディケンズが描いているのは、父は存在するが、父親として機能していないことから生ずる混乱なのである。