しかも屏風岩は白川ダムの建設より削り取られ跡形もない。又屏風岩・神明・黒崎の三橋はその距離六百mダム堰堤(えんてい)基礎工事により全てが取り壊された。ただ安道寺橋は現存しておりダムサイトから望むことができる。
この橋の下流左岸は私が中学生の頃杉林であったが揚水機の能力アップにより水田に変わっていて、坪深の菜の花畑まで上り坂である。大鹿分校では坪深の畑を借り大豆を栽培していて、畝立と播種(はしゅ)の後、井上先生を交えて、まだ耕運していないノビルの繁茂した畑で上級生たちが、ソフトボールをしていたのは私が小学入学当時のことである。
坪深から下ると白川に沿った道路は平坦となるが、左手は切り立った崖が山頂まで延びており、板敷岩と言われここは雪崩の名所で、私が成人した三月末、ここを通ると川音とは違うような音に気が付き、見上げると地表雪崩が、雪煙を挙げて迫ってくる。必死で走り九死に一生を得た。
私の後方を歩いていた近所の婦人がこの雪崩を目にし、板敷岩から折り返し遠藤商店の店主と雪崩の下敷きの遭難者がいないかを確認したところ、雪崩の前方雪道に今歩いたばかりの足跡を見つけ安堵したとのことだった。
ところで祖父豊松が梨木峠や屏風岩を歩いて小松まで米を売りに行った話をしたことがある。それによると祖母かつと半俵三十kgを背負って、梨木峠・屏風岩を横切り、切通から黒崎のヘツリを歩くと坪深・板敷岩の川岸をへて、西高峰の集落に着く。
ここから開けた土地になり、神ノ倉から道は白川を右岸へと渡り赤岩峠を越えると玉庭熊野堂集落で、ここまで来ると小松町は後ひと息となる。
かつが豊松に嫁いだのは大正三年で、昭和七年早逝しているので、南洗尾と大鹿を結ぶ白川に掛かる橋は、オサ橋から鋼鉄ワイヤーを用いた吊り橋だったと思う。
ブナ材を搬出するために開削した自動車道は屏風岩付近四橋のほか、矢淵から大鹿まで矢淵橋・南洗尾橋があり、須郷から矢淵までは小坂集落を上向・中向・下向小坂と三か所に分ける上覧橋・宮明橋・通釜橋の三架橋があった。
私が中学三年時に洪水があり南洗尾橋が崩落し、半年ほどその橋のすぐ下流に仮吊り橋を架けた。その年の七月南洗尾吊り橋を頭から逆さまに落下した。
橋の高さは六m程で川岸は砂を柔らかく固まった様な泥岩で、頭を打ったが何事もなく済んだが、岩盤が硬かったり、増水時であれば激流に飲まれ命の保証は無かったのである。
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