クリは、くりくりとした真ん丸な瞳で、誰にでも尻尾をふって顔を嘗めたがる人懐っこい犬だったから番犬にはならなかった。玄関横の犬小屋でいつも寝ていて、ご飯が唯一の楽しみで、お手もお座りも上手にやるが、おやつを見せないと決してしようとはしなかった。

散歩が嫌いで、どんなに引いても門の外に出ようとしない犬だった。そのくせ家の中ではいつも朋のあとを追いかけてきて、ご飯をあげる母より、連れてきてくれた父より誰れより朋になついていた。

このクリが朋と一緒に歌うことを覚えてしまった。朋のアルトが聞こえてくると、高いソプラノで「ウォーン」と近所にひびく声で鳴く。坂の下の海岸までとどくような声で鳴くので、朋はクリに気づかれないように、小さな声で練習するしかなかった。

ある日、小声で練習している朋の横で父親が新聞を読んでいた。しばらく父親は黙って座っていたが、やがて新聞から顔を上げると一声「変な歌だ」と言った。

三部合唱など聞いたことのない父親に、アルトパートが分かるわけがないから放っておいたが、少し残念だった。そして、その日以来、父親にも練習を聞かれないように気をつけた。

『夕べ』は部の活動費を得るだいじな演奏会だから、その入場券の販売には力が入れられた。千二百枚の券は四等分され、学校の購買部、出入りの商店、近くの女学校、そして部員自身で売られた。

部員の分は一、二年生に二十枚ずつが渡され、友人や親戚に売り歩いた。三年生は、こうした俗事にはかかわらない。

 

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