長崎高等商業学校、市民は略して高商(こうしょう)と呼んでいるその学校は、坂道を挟んで県女の向かい側にあった。もし高商生と一緒に電車に乗ると、諏訪神社の停留所から一緒に学校へ上ってくることになる。
それはとても危ないことだった。坂道を高商生と並んで歩くようなことになり、それを級友に見られでもしたら、噂好きな彼女たちは二人の仲を勘繰り、冷やかし、囃(はや)し立てるに決まっている。
入学早々、クラスの話題になりたくはなかったし、好きでもない相手と話題にされるのはまっぴらだったから、高商生と一緒に降りると、彼を引き離そうと朋は坂道を駆け上がるのだった。朝から坂道を走って上がるような苦しい思いはしたくない。
幸い今朝は石橋の停留所に高商生はいないらしい。このまま諏訪神社まで乗ってこないといいが……。
だが、乗っているのが長崎医科大生だと事情は違った。医大生はスマートでインテリだったから、女生徒たちにとって憧憬(あこがれ)の君だった。
医大は浦上(うらがみ)にあったから一緒に坂道を上ることはできなかったが、彼となら噂の的になってもよいと女生徒たちは思っていた。
朋も小学校で二年先輩だった医学専門部の生徒に憧れを寄せていたが、なぜか最近は一緒になることが少なかった。今朝も彼はいないようだ。
朋の家には六歳になる柴犬の「クリ」がいる。赤柴にしては茶色が濃く、背中に少々黒が混じった、ほとんど栗色の雌犬で、父親が職場の上司から「どうしても」と貰わされてきた犬だった。栗色の栗山家の犬だったから「クリ」と朋が名付けた。