【前回の記事を読む】「命は惜しみません」革命戦に情熱を燃やした女性、陳璧君。汪兆銘の決心を聞いた彼女は…

第三章 女の命を革命にかける

北京では瑠璃廠(リューリーチャン)という通りに写真館を開いた。これは黄復生の発案であった。彼は写真技術に多少の知識があったので、一応写真屋らしく身辺をカモフラージュし、暗殺の機会を待つことにしたのである。

一九一〇年(明治四十三年)、二月二十二日夜、その時はきた。

因みにこの年は、四月にハレー彗星が出る、孫文はこの彗星を東京で見る、蒋介石が日本の士官学校を卒業する、その年蒋介石には長男蒋経国(1)が生まれる……奇縁の年であった。

その夜のことである。摂政王・載澧が紫禁城へ参内する通路に銀錠(ぎんじょう)橋という橋がある。その橋の下に、汪兆銘等はひそかに爆弾を装置した。翌朝、摂政王が参内の途上、この橋にさしかかった時、この橋を爆破してその目的を遂げようとの計画だった。夜更けてその計画を実施した。

ところが、汪兆銘等のこの作業を見ていた男があったのだ。なに、この男は清朝のスパイでもなんでもない、近所に住む陳という男。

この男は、妻が他の愛人と出奔して三日も帰らないので、その夜中にその辺をウロついて自分の妻、姦婦の帰りを待っていたのだった。この男は早速巡捕に訴えて賞金を貰うことを考えた。巡捕が翌朝早く現場を検証すると、それは爆弾であるとわかった。

汪兆銘らの計画は未遂に終わったのである。

清朝が暗殺容疑犯人の捜索に全力を挙げたのは言うまでもない。三月七日、先ず写真館で黄復生が捕まり、まもなく汪兆銘も逮捕された。当時の北京城内巡警庁丞だった章宗祥(しょうそうしょう)が汪兆銘等を尋問した。

汪兆銘は供述書を粛親王に提出した。それを読んだ粛親王は感動して、死刑にするところを終身刑に減刑することにした。

その獄中で、汪兆銘が書いた供述書にある彼の作詩した五言律は、当時有名なものとなった。

次の漢詩(2)がそれである。