【前回の記事を読む】「立ち上がらせて運動させるんです」病棟の中心に大きな檻。檻の中には成人男性が、同じ方向を向いてぐるぐると歩いていた。
第一部 自閉症の世界への道
第一章 かれらにつながるきっかけ
障害児教育 衝撃の病院見学
昭和初期の頃、自閉症という名称はメジャーではなく(大学のテキストには小児分裂病という記述さえあった)、自閉症も知的障害児(当時は精神薄弱児と呼ばれていた)の枠で括られていた。
そしてコミュニケーションのとれる知的障害児には向いているだろう身辺自立(食事や着替え、トイレなどの基本的な動作)、生活に密着した作業を教える生活単元学習中心の教育を受けたはずだ。
しかし、話す・聞くことが苦手な自閉症児向けに特化された教育ではなかったため離席や多動・拒否も多かっただろう。何しろ自閉症という病気については親のしつけ方や愛情不足・放任だと言われたこともあったほど、原因も病名も二転三転し、治療方法も教育も長い間確立されていなかった。
しかし、昭和の後半から脳科学の研究が急速に進み、自閉症の原因についても脳の発達障害と言われるようになった。しかし脳の機能障害とわかってはきたが、脳の機能障害だからといって外科治療のようにはいかないのだ。
手術で治るものではなく、薬の開発は困難で、これという特効薬も現れない。それだけに、病院を見学して受けた衝撃は大きかった。人間は人間になるように育てられなければならない、教育こそがその土台をつくるのだと、その時強く思った。
障害児教育 目からウロコの教育実習
大学では児童学科を専攻したので、せっかくだから教員免許も取得しようと考えた。免許取得のためには四週間の教育実習の単位も必要だった。
実習先は自分で探さなければならなかったので、息子の小学校の校長先生に近くの障害児学級を紹介してくれるようお願いした。校長先生は一区画離れた小学校の校長先生と親しく、運よくその学校に特殊学級(現在の支援学級)があったおかげで実習の話を通してもらい、許可をいただいた。
その特殊学級は、たかはま学級(仮名)というクラス名だった。山形県出身の中年の女性が主任で、東北人らしい堅気、信念の強さ、忍耐強さを持っていた。副担任は若い女性の先生だった。たかはま学級は主任の厳しい指導の下、それぞれ子どもの能力に合う学習をしていた。
生活単元や体育ばかりでなく、科目ごとの時間割があった。また、通常学級と交流している児童のためにリコーダーの指導もしていた。
学級の低学年に自閉症とダウン症の重複障害(二つ以上の障害を併せ持つ状態)の女児がいた。主任は彼女の指導に腐心しているようだった。