午前中に薬物療法、解剖概論を受講し午後の病理学を終えて薫子はいつものように鴨川沿いを自宅のある綾小路の方へと歩いた。
四条大橋を渡り寺町通を左に折れ綾小路の角が薫子の住まいである。四条通りを西に向かい寺町通との交差点に差しかかって信号待ちをしていると、右折する乗用車と直進してきたバイクが目の前で衝突した。バイクの運転手は宙を舞い道路に叩きつけられ、何度も弾んで動かなくなった。茫然と見ている薫子の背後から耳のそばで声がした。
「あんた、仕事せんでええの?」
薫子が振り返ると青白い顔をした黒いスーツ姿の男が立っていた。若そうにも見えるが年寄りにも見える顔だ。
「あの男、死ぬで。あんたはんにも分かるやろ」
低い小さな声で囁いている。
「ほっといてや」
薫子は信号が青に変わったので走り出して、その場を逃げるように家に帰った。
「おかえりなさいまし」
ばあやのいねがいつものように出迎えた。
薫子の家は古くから代々続いてきた邸で母の死後、薫子が相続していねと住んでいる。京都市内の一等地であるにもかかわらず敷地は千坪を超えている。
学生の薫子の生活は母の残した資産が運用されて困ることはないらしい。「らしい」というのは薫子の後見人という弁護士がいて、全てを運用してくれているらしい。これも「らしい」のであって実際にその弁護士に会ったことはない。
実際にどのくらい資産を持っていてどのように運用されているかは全く知らないでここまできている。いねは薫子が生まれる前からここにいるので、物心ついた時からの関係であり使用人であるが今では母親でもある。年は五十を超えている筈だが、とてもその年とは見えないほど若々しい。