第二章 同行二人
同行二人
東京の東端に近い最寄り駅から始発に乗って大手町で下車。六時の「のぞみ」に乗車して大阪駅に定刻の八時四十三分着、大阪駅桜橋口改札を出て九時に阿波エクスプレス・バスに乗車、神戸を経て明石大橋を渡り、淡路島を縦断して行く。
晴天下に移りゆく景色に心が動かされ、いつかどこかで過ごした思い出が脳裏に蘇ってくるのを、茫漠とした思いのなかで追うでもなく追われるでもなく、ただその思い出と風景とが既視感を誘うままに、私は心身をバスの揺れに任せていた。
《…二〇年も前のことになるだろうか、四月から五月にかけての連休に、家族五人で四国一周の旅をした。岡山から瀬戸大橋を渡って坂出へ出て、金毘羅宮に詣でて泊まり、翌朝栗林公園(りつりんこうえん)で散策を楽しみ、高松から予讃線で松山に行き、松山城、市内を見学して道後温泉で泊まった。
その翌日は松山から再び予讃線に乗り、内子を経て鉄道の終点だった宇和島まで行き、そこでレンタカーを借りた。
国道五十六号線を足摺、高知と泊まって、最後は雨中ひたすら走って徳島の眉山(びざん)へ行き、それで車を返したのだったが、今思い出すと見るべきもの、楽しむべきものがたくさんあり、家族で慈しむべきときをもっと持つことができたかもしれない。
行かなかったところなど惜しまれもするが、あのときにはなにもかもが楽しくて、惜しむところがあるなどと気づきもしなかった。当時最大手の旅行社に頼んで手配してもらった旅行だったが、最後の徳島の宿はひどいところで、キャンセルしたのはよいがシーズン中でもあり、大雨もあって別の宿をとるのが大変だった。
なんとか市内のビジネスホテルに泊れて子供たちを一人ずつ風呂に入れ、彼らも親の気持ちを察したのか素直に無邪気で皆が楽しそうだった。
翌日は洲本へゆき、そこからフェリーで神戸へ出て新幹線で帰る予定で、指定席の切符もあってのんびり帰ればよいと思っていたが、朝のうちの晴天が嘘のように季節はずれの台風が接近して、満員で到着したバスで洲本まで行くと、なんと神戸へのフェリーが欠航となり、洲本から再び大混雑のバスで岩屋へ出て大型フェリーで須磨へ渡った。
須磨の駅前で十分に間に合うと請け合ったタクシーで新神戸へ向かったが、道路が混んで新幹線の時刻が迫り、ついに駅舎が見えてきた手前の路上でタクシーを降りて、家族全員必死の思いで駅のホームまで走った。実に間一髪で乗車し、乗車すると同時に列車のドアーが閉まった。
周囲の人たちは苦笑とも憫笑ともつかぬ笑いを浮かべていたが、あのときは本当にもう駄目だと何度も思ったが、皆よく頑張って諦めずに走ってくれた…》