1881(明治14)年―ライマン帰国。

ライマンは日本贔屓で、日本の古い文物のコレクターとしても知られている。彼の助手の中から、のちに鉱山技術者が多く育った。

――ライマンまだ誰も手をつけていない日本全国の地質調査を大鳥圭介に申し出、予察図を制作するため、東北・北陸・中国・九州・四国にわたる長旅行を企て、東京に赴くと、日本政府はドイツ人地質学者ナウマンを雇い、日本地質調査所が設立されると知り失望。

ただ、自分の助手たちに、一生涯安定した仕事を与えようとした考えが、蹂躙(じゅうりん)されたことが心外であった……。

ライマンの調査時日はわずか三年であるが、語学や科学の準備知識の無い若い日本の助手たちに、数学や物理の初歩から教え、また実地に測量や常識的知識学を教え ……最初調査に加わった折は、数学は僅かに分数に達した位で、図画のごときはほとんど学ばなかったのが、いまは充分に野外観察測量、および製図ができ、目に見えぬ地下の地質まで考察し得るように進歩した(『偃松(はいまつ)の匂ひ』)。

10月、開拓使官有物払い下げ中止(明治14年の政変)。翌15年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の3県をおく。

1882(明治15)年―江別‐幌内間の全線が開通。

北海道の石炭が小樽や室蘭から本州の工業地帯に運び出される。ちなみに、幌内鉄道の役割は石炭の輸送だけでなく、鉄道沿線の開発への影響が大きかった。

今尾恵介著『新・鉄道廃線跡を歩く 1』(JTBパブリッシング)を開くと、幌内線の盛衰が写真と地図、詳しい説明でよく分かる。

なお、当時の北海道は労働力不足だったので、空知集治監開設とともに、多数の囚人を坑内労働させた。

1907(明治40)年―ライマン72歳。

フィリピン群島地質調査に赴く途中、横浜へ寄港。門生らが集まりライマンを歓迎。その記念写真が『北海道の百年』に載っている。

1920(大正9)年―ベンジャミン・ライマン、死去。享年85歳。

ライマンは邦人間にすこぶる好評を博していたが……外人連からも敬意をもって遇せられ……来朝当時から我が国の山水と風光に憧れ、歴史や習慣を慕い、外人では珍しい菜食主義を守った……ライマンには信実な邦人学僕があって、終始日本を語り、遠雷の孤客を慰めていた。

その結果、この者はアメリカへ伴われ、学資も給せられて大学に入ったが病のために没した。それでもライマンは邦人の留学生を招き、開拓使の懐旧談にふけり……終生、日本の空を眺め、淋しい孤独の日を送ったのである(『奎普龍将軍』)。

冒頭の「太田金物店」はライマンが死去した大正9年頃開業したようだ。主力商品は坑内で使う工具、金物店は幌内炭鉱を運営していた北炭(北海道炭礦(たんこう)汽船)や三笠市と取引して繁盛した。


参考資料:『北海道の夜明け‐開拓につくした人びと』北海道総務部文書課編1965/『北海道の歴史』三省堂1996/『北海道の百年』山川出版社1999/『北海道』郷土史事典、昌平社1982/『旭川市史稿 上』旭川市編1931/『偃松の匂ひ』小島烏水著、展望社1938/『奎普龍将軍』谷邨一佐著、山口惣吉出版1937

 

👉『明治大正人物列伝Ⅲ』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】突然死した妻の相手は誰だった?...自分の不倫はさておき、弔問客の中からやましい男を探し出す。

【注目記事】「俺をおいて逝くな…」厚い扉の先にいた妻は無数の管に繋がれていた…。