【前回記事を読む】近代日本を支えた外国人【ベンジャミン・ライマン】——北海道幌内炭鉱の地質調査と石炭資源開発に尽力した。地域への影響は…
春の記
2021 1.9
北海道鉱業開発の先駆者、ベンジャミン・S・ライマン
ベンジャミン・ライマンと日本、その時代
1873(明治6)年
仮学校の地質測量生徒10人余りはライマンの北海道地質調査に随行、測量の補助をつとめた。彼らは北海道地質測量図の完成に大きく貢献し、測量技師として、のち内務省に転ずる。
電信生徒は電信架設のために募集・養成され、北海道の電信網の拡大に役割を果たした。
1875(明治8)年
ライマン、北海道地質調査をひとまず終了。
ライマンが黒田次官のもとに差し出した実地踏査の意見書は、きわめて価値があり、外国人の手になったものでは秀逸であった。明細な表をつくり、この方面の進歩に大きな利益を与えた。
1876(明治9)年
ライマン、工部省お雇いとなり、越後遠江の油田調査を翌10年まで行う。
1877(明治10)年
西南戦争。『日本油田地質測量書』辺・司・来曼(ベンジャミン・スミス・ライマン)工部省出版。
1878(明治11)年
ライマン、全国地質測量主任となり、全国の地質鉱山調査にあたる。その間、日本人青年を助手として優秀な地質技師に育てる。その13名中、坂市太郎、西山正吾など後年、活躍する。
さて、殖産興業を推進する政府は、開拓使の要請により起業公債の一部を幌内炭山の開発と茅沼炭山の改良にあてることにした。
――ライマンは幌内の石炭が質量ともにすぐれていることを保証し、開拓使大判官・松本十郎は「皇国第一ノ宝」と激賞した。一つの問題は幌内の石炭をどうやって積み出すかということであった。これを太平洋岸(室蘭)に送るか、日本海側に移出港を求めるか……結局、小樽までの鉄道建設に踏み切った(『北海道の百年』)。
政府は幌内炭鉱の開発に着手するが、石狩炭田という内陸部に立地するため、輸送ルートが確立されてないので鉄道建設を計画する(幌内鉄道)。
1879(明治12)年―幌内炭鉱、開坑。
1880(明治13)年―アメリカ人技師クロフォードの手を借り、小樽の手宮~札幌間、幌内鉄道が開通。
本州の鉄道がイギリス方式で建設されたのに対して、幌内鉄道がアメリカ方式なのは際だって特徴的であった。機器はすべてアメリカ製を用い、「義経」「弁慶」と名付けられた最初の機関車群は、大型の煙突と前方につきだしたカウ=キャッチャー(排障器)をそなえ、アメリカの平原を思わせる姿をみせていた。