新婚生活は、街の外れにある小さなアパートから始まった。

六畳二間と狭い台所。窓の外には古びた電柱が立ち、夜になるとオレンジ色の街灯が頼りなく灯った。その光は、まるで古い蓄音機から流れるレコードのノイズのように、静かな夜にかすかなざわめきを与えていた。

けれど、僕らにとってはそれで十分だった。むしろその狭さや不完全さが、僕らをひとつに結びつけているように思えた。狭い部屋の壁が、二人の距離を自然に近づけ、他の世界を外に押し出してくれているようだった。

朝は僕が先に起きて、インスタントコーヒーを入れる。粉をカップに落とし、熱湯を注いだときに立ちのぼる香りで、彼女は目を覚ます。眠たげな目をこすりながら「おはよう」と言う声は、まだ夢の名残をまとった柔らかい音だった。

食卓にはトーストと目玉焼き。黄身がゆるやかに揺れるその小さな円は、僕たちの日常の太陽のように見えた。彼女はきれいに食器を並べたが、僕はつい無自覚に言ってしまう。

「バターは右側の方が取りやすいんじゃないかな」

彼女は「あ、そうだね」と笑いながら皿を動かした。その笑顔を見て僕は満足した。けれど、その瞬間、彼女の笑顔の奥で何かが小さく欠けていく音を、僕は聞き逃していた。まるで壁紙の裏でひびが走るのに気づかず、ただ新しい家具を並べて安堵しているように。

休日になると、彼女は外に出かけたがった。映画を観たり、美術館に行ったり、あるいは少し遠くの街まで足を延ばしたいと。彼女の声は、そのたびに風に乗る小鳥のように軽やかで、期待にふくらんでいた。だが僕はいつも現実的な理由を持ち出した。

「今日は天気が良すぎて混むだろうし、行っても疲れるだけだ」

「電車賃を考えると、ちょっと無駄じゃないかな」

僕はそう言って、合理的であることに安心した。自分が舵を握っているような錯覚を覚えた。彼女は「そうだね」と笑って引き下がる。その笑顔は、薄いフィルムのように透明で、しかし次第に色を失っていった。最初は透明なガラスに描かれた絵の具が少しずつ剥がれていくように、ゆっくりと。

彼女が友人と会う約束をするときも、僕は知らず知らずのうちに口を出した。

「その子、君とは価値観が合わないんじゃない?」

「夜遅くなると危ないし、ほどほどにした方がいい」

もちろん僕は心配しているつもりだった。だがその「心配」は、彼女の行動を制限するための鎖となった。彼女は「うん、気をつける」と言いながら笑った。その笑顔には小さな嘘が混じっていたのかもしれない。

だが当時の僕には、その嘘を見抜く力も、見抜こうとする意志すらなかった。僕はただ安心したいがために、彼女の頷きを必要としていたのだ。

次回更新は11月11日(火)、11時の予定です。

 

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