梨木峠と道心切り

飯豊山を源として最上川に合流する白川は、上流部を南置賜郡中津川村、私の集落矢淵を境として下流部が西置賜郡豊川村である。

戦前まで中津川から白川沿いに下流へと下る白川右岸の山道は、荷車も通ることのできない細い岨道で、我が家の軒先を北へ向かうと、少し坂道を登り我が家で林口と呼ぶ道路沿に狭い台地があり、

ここに十本ほどの杉を植栽し並木を作り成木となって横木を渡し、毎年順繰りに萱屋根を葺き替える萱を積雪前に刈り取って、ここに立てかけて乾燥する場所である。

その先は急峻な山を横切り梨木峠へと差し掛かる。この峠の手前は頻繁に地滑りする横向(よこむ)きと言われるヘツリで積雪時は雪崩の危険もあり、昭和十八年一月二名の女子生徒と代用教員の三名が表層雪崩に巻き込まれ亡くなる惨事があった。

梨の木峠は字名矢淵と南洗尾の境界で、峠を下ると井上平左衛門家の庭前に着く。井上家の居宅は高台になっており、その端にある蚕室小屋から坂を降り田圃となり、白川の左岸へオサ橋を渡り大鹿部落に至り道は屏風岩に続く。

屏風岩は近隣に知られる景勝地で、高さ五十m・長さ百m以上の岸壁で、凝灰質砂岩が白く輝いていた。峰には松の老木が茂っており、「咲き登る巌のさきや藤の花」など躑躅(つつじ)やあやめを詩ったものが多く残っている。

この屏風岩の麓から中腹を横切る細道が、白川下流の集落まで通じる唯一の山道であった。屏風岩の中腹に一か所だけせり出した岩壁があり、ここは短い洞門になっており、この洞門と岸壁を削り取るようにした道を、道心切りと呼んでいた。

ところで太平洋戦争のさなか、白川源流部のブナの原生林を伐採し、戦闘機製作材とするブナ材搬出自動車道が白川沿いに開通された。

屏風岩付近の白川河川は左右岸とも、山肌が迫る峡谷で蛇行して流れ下り、屏風岩・神明・黒崎・安道寺の四橋が連続して架けられ、

私が小学入学時は梨の木峠も屏風岩道心切りの険しい道を歩いたことも無いが、屏風岩にヒメサユリが咲くのでそれを見るため洞門まで歩いたことは記憶にある。

しかしこの道を歩いた先人たちも殆ど鬼籍に入り、当時の苦労を知るすべは途絶えてしまった。

 

👉『大鹿の記憶、白川の風にのせて』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】二階へ上がるとすぐに男女の喘ぎ声が聞こえてきた。「このフロアが性交室となっています。」目のやり場に困りながら、男の後について歩くと…

【注目記事】8年前、娘が自死した。私の再婚相手が原因だった。娘の心は壊れていって、最終的にマンションの踊り場から飛び降りた。