丁稚奉公と工事現場

中学を卒業したら横浜の酒屋で働けと父に言われたのは、中学三年の春だった。

父は、厳しい人だった。そして気が短く、すぐにげんこつが飛んできた。だから家の中で父の決定は絶対だった。なぜ横浜の酒屋なのかと尋ねることも許されず、十五歳の私は横浜に向かった。

当時高校に進学する子供は、非常に少なかった。私は地元で働きたいと思って働き先を探したが見つからず、酒屋に丁稚奉公に行くことになった。

丁稚奉公とは、住み込みで雑用や下働きなどをする制度だ。酒屋には二十四歳ぐらいの先輩もいた。午前中は自転車で山の上の家の方まで注文取りにまわり、午後は注文の品物を自転車の前と後ろのかごにいっぱい入れて配達し、帰ると夜遅くまで店番をした。

しかし私は酒屋の仕事には興味を持てなかった。自分には向いていないなと思い、三ヵ月程で辞めてしまった。店を辞めることになったと伝えると、よく配達に行っていたお客さんの中には、あなたには他の仕事の方が向いていると思うと言ってくれる人もいた。

山梨の実家に戻った私に、今度は「工事現場に行け」と父は言った。砂防ダムの工事現場での仕事だった。当時は土砂崩れを防ぐための砂防ダムがあちこちに作られており、働き手が不足していたからだ。

つるはしとスコップで地面を削り、縄や竹などを編んで作ったモッコという運搬道具に土砂や石材を入れ、天秤棒をさしいれてその前方と後方を二人で担いで運んだ。シャベルで地面を掘りならす。最初に現場に行った日から、上の人の指示を守って一生懸命働いた。

しかしどれも初めてやる作業ばかりだ。くたくたになりよろけるようにして家に帰ったものの、体中が痛くなり、翌朝は起き上がることもできなかった。それでも二日目から休むわけにはいかず、何が何でも行きなさいと母に起こされ、同僚に支えられながらなんとか現場に向かった。

しばらくすると現場で物を運ぶオート三輪車の助手にしてもらうことができた。

当時小さな巨人と呼ばれている人物がいた。小柄な体格なのに、人並み外れた力と知恵があった正和さんだ。みんなが苦労する重い土砂が入ったモッコも軽々と持ち上げてしまう。仲間うちでも注目されていた正和さんは、後に私の姉と見合いをして結婚した。そして正和さんと私は一生の付き合いになるのだが、そのことはまだ知る由もなかった。