【前回の記事を読む】【創業者の挑戦の軌跡】日本初のカーリフト専業メーカーを創業して半世紀。あの時、占い師の言った言葉は現実となっている――

第一章 機械と向き合う人生の始まり

戦争の記憶

戦況が悪化し、日本中が無差別に繰り返し空襲を受けた。しかし私達家族が住んでいたのは山梨県の山あいの村だったためか、爆撃機は襲来しなかった。それでも父は心配して竹藪の中に防空壕を作っていた。

あれは三歳頃だっただろうか。夏の夜、私は母に抱かれて庭に出ていた。

すると遠くの町が真っ赤に燃えているのが見えた。炎はとても大きく、夜空にまで届きそうな勢いだった。母も隣にいた父もただ黙って遠くの炎を見ていたのをうっすらと覚えている。

それが太平洋戦争末期一九四五(昭和二十)年七月の甲府空襲だった。市街地が見渡す限り焼け野原となり、多数の死者が出た大きな空襲だった。
 
戦争についてはもう一つ、今も忘れられない思い出がある。

小学校三年生の時、原爆の記録映画を観る機会があった。崩れ落ちた屋根の下から這い出して来る全身が火傷でただれた人間、遺体が転がる道路を逃げ惑う自分と同年代の少年達。

これがほんの数年前に日本で起きたことなのかと、深いショックを受けた。アメリカは何と残酷な兵器を使ったのだろう。戦争とはこんなに惨いものなのか。

子供ながらに大きな衝撃を受けて、私はしばらく椅子から立ち上がることができないほどだった。そしてこの時感じた思いは長い間消えることがなかった。

中学になると英語の授業が始まる。最初はA、B、Cのアルファベット。次はお決まりのThis is a pen.