鑑識によると、死亡時刻は昨晩の夜七時から十時の間と推定された。
寝室に置かれた主人の名刺入れから、ロイド財団特別顧問の肩書きの名刺が発見され、すぐさま財団にもこの事件が伝えられた。家政婦の語るところによると、老人には残された身寄りはロンドンにいないようだった。しかしダブリンに三つ違いの妹がその夫と住んでいることが分かり、そちらにも連絡がとられた。
その結果、彼女はその日の夕方か夜には、ロンドンに入れることが確認された。
高名な美術評論家ミッシェル・アンドレ氏死亡の出来事は、その日のテレビや翌日の新聞で広く報道された。多くのテレビ番組や新聞記事の中ではこのように解説されていた。
鍵が完全に施錠されていたり、室内には争ったような痕跡が全くない状態で、混乱の様子は一切見られなかった。それに、最近ポートマン倶楽部によく顔を出していた氏は、仕事上の問題で不満を爆発させたり、他の美術評論家達をこき下ろしたりしていたかと思うと、傍に人を近づけないほど落ち込んだりした様子の多々あることが、倶楽部の職員から語られたとあった。
このように倶楽部によく出入りする関係者の多くが、アンドレ氏は最近感情の起伏が激しかったと、一様に言っていたところを見ると、原因は老人特有の鬱病による自殺の線が強いようだと報道されたのである。
しかし警察のコメントから判断すると、他殺の線が完全に否定されているわけでもなさそうで、捜査は引き続き行われるだろうとも付け加えられていた。
多くの新聞では特別に紙面を割き、氏のこれまでの輝かしい業績を載せて、英国美術界、いや、 広く世界の芸術界にとってまことに惜しい人物を失ったと一様に結んでいた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商