台所の隣を自分の書斎兼寝室にしていたのだが、朝早く台所から炊事や食事をしている音が、ガチャガチャ聞こえてきて騒々しく、とても寝ていられないということになり、父はすぐに自分のための「はなれ」を建てるのである。
父は行動力や決断力には長けていたが、単に短気でせっかちなだけの人で、十分熟考して吟味するという能力には欠けていたのではないかと思う。家を建てて程なく、父は車庫の上に、自分の書斎兼寝室を建ててしまうのである。
家を一軒建てた直後に、よくそんなお金があったものだと不思議に思うが、父としては、静かな環境で過ごすためには、一刻の猶予もわずかな遅れも許せなかったのだろう。このような予定外の出費があったから、生活費をケチケチしていたのかもしれないが。
そのはなれには電話の子機や当時、まだ珍しかった水洗式の洋式トイレ、さらに洗面台まで備えられていた。一方、母屋のトイレは汲み取り式で男女兼用の和式便器である。
車庫の上に、はなれが完成すると、父はそこで過ごすことが多くなった。夕食は母屋で家族みんなと一緒に食べるが、その後は、ほとんどはなれにいたと思う。だから、私が風呂からあがるような時間に、いつも父が脱衣場の前の居間にいるのは不自然なのである。明らかに狙ってそこにいたとしか思えない。
この出来事は、私の父に対する不信感及び嫌悪感を決定的なものとした。
まさに〝覆水盆に返らず〟で、それこそ、この後、どんなに父が取り繕おうとしても、もはや修復不可能なくらい、私の中での父の評価は地に落ちてしまったが、思い起こせば、それ以前にも、性的なことで不快な思いをさせられたことはあった。
小学六年生の頃に、父が「こらァ」とか言いながら、私の胸をつまんできたことがある。前後の状況は思い出せないのだが、私は自室で机に向かっていた。突然の出来事だったらしく、かなりなショックを受けたことは覚えている。この時はまだ平らな胸をしていたので、つまめるようなものは何もなく、その一度きりだったが、この時の不快感は、今でも忘れられない。
父に対する不信感、嫌悪感は、この頃から既に芽生えていたのかもしれない。
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