だが、精神科の医師の丁寧な説明を聞き、自分の認識の誤りを思い知った。恵子は新聞記者をしており、家庭欄所属。締切が夕方だから、記事を書きおいて退社したり、取材先から直接帰宅したりした。
二八歳のときに長男の翔平が生まれ、八年後に弟の陽平が生まれた。だから二人の保育園通いは重なることがなく、通算十二年通った。浩は、週刊誌の記者で、夜中でも電話一本で呼び出されることがあった。家事・育児はすべて恵子が背負ってきた。
唯一、時間がとれたのは、浩が土日いずれか休めて、掃除や食事づくりをしたとき、見たい映画のビデオを借りてきて、ソファに横になって見るときだけだった。浩はすべてを恵子に任せていることを気にはしているようで、こういうときはビデオを返しにも行ってくれた。
浩に後ろめたさがあることは理解できたが、「なんで私だけが……」という不公平感がぬぐいきれなかった。
浩が夜帰ってこず、朝起きてリビングに来ると、スーツのままソファで寝込んでしまっていることもよくあった。顔を近づけると、まだかなりお酒臭い。たぶん三時とか四時に帰宅したのだろう。
恵子は、仕事をがんばっている浩へのひとかけらの敬意と、胸からあふれ出てくるほどの怒りを感じた。すぐに台所に立つ。朝食ができるころ、翔平と陽平を起こしに行く。二人とも朝から元気だ。ケラケラ笑いながら、父親の鼻の穴に指を突っ込んだり、耳を引っ張ったりしている。
「さあさ、二人ともご飯よ~」。恵子が声をかける。
簡単だけれど、ちゃんと栄養バランスのとれた朝食が並ぶ。浩は寝返りを打って、また眠ろうとしたようだ。だが、翔平と陽平がふざけながら食べて、大きな声も出すので、眠りに落ちることはできない。ゆっくりと立ち上がる。
ダイニングテーブルの近くに来て、「パパの分ってあるの? ……ないよな。まあ、あとでカップ麺でも食うかな」と目をしょぼしょぼさせながらいう。「カップ麺」というところに浩の嫌味を感じる。涙がこぼれそうになる。心の中でいう。
「当たり前でしょ。私はあなたのお母さんじゃないのよ! いつ起きるんだか起きないんだかわからない人のご飯なんか、作るか!」。だが口には出せない。こういうとき我慢してしまうのが恵子の性格だ。そんな不満が胸の中に沈殿していったこともうつの一因かもしれない。
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