第5章 仏教的死生観(4)― 禅的死生観
私の家の近所に曹洞宗のお寺があり、その案内板の「教義」に以下の文言が書かれている。「人は本来仏性(ぶっしょう)有り。己(おのれ)に仏心の具(そな)え有り。正法(しょうぼう)の経典を讃仰読誦(さんこうどくじゅ)し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然(宇宙)と一体なる自己を見極めて闊達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり」と。「闊達なる人生をいかしきる」、ここが要点と見える。
さて、禅的死生観の考察には、この教義文言にある、「己」が具有しているその「仏心」を手掛かりにする方法と、「自己を見極め」る、いわゆる「己(こじ)事究明」を手掛かりにする方法と、二つあるように私は思う。
第1節 「仏心の信心」による生死(しょうじ)超克
先に浄土教的死生観を紹介したが、浄土教は「他力」の教え、禅は「自力」の教えとされ、禅僧などは両者の違いを次のように言う。
玄侑宗久曰く、「極楽浄土や地獄がこの世と別なところにあるという考え方は、禅的なものとは言えない。禅では、ここが浄土にもなり地獄にもなる、それ以外にどこか別の場所があるはずはないだろう、とかんがえるわけですから」(『生きる。死ぬ。』土橋重隆との対談 ディスカヴァー・トゥエンティワン 二〇一三年)。
松原哲明曰く、禅は「自分の内側にある、何も生じていない心を信じること」で「自分の内側に仏を見る」ことであり、浄土教は「自分の外側に仏像を置いて祈り、拝み、願いを託す」という「自分の外側に仏を見る」ことだ。(『私の禅的な生き方』大和書房 ㉗)