また、仏教哲学者の堀尾孟は、浄土教の死生観には「死すべき存在としての人間」が常に課題としてあり、それゆえにこそ救い・往生がテーマになるのに対して、禅宗では「直指人心・見性成仏」というように、「父母も生まなかったこの『自己』が何処から来て何処へ去り行くのか」を問い、「見性」即ち「自己の本性、自己の正体」を認識できてこそ「生死輪廻の世界」から脱却できる、と説く。(「禅における死生の課題」、藤本浄彦・編『死生の課題』人文書院 一九九六年 所収)。

一般的には、「自分の内側に仏を見る」とか「見性」という自力の修行が禅においては強調される。「一切衆生悉有仏性(しつうぶっしょう)」、すなわち先の案内板の「己に仏の具え有り」の仏性の自覚が修行の要(かなめ)だ。

その仏性は煩悩で覆い隠されがちだが、本来は清らかな「仏心」なのだし、そこを自覚しそこに自らを委ねるところが、禅的死生観への第一番目の手掛かりだ。それを「仏心の信心」による生死の超克と呼んでおきたい。

例えば、臨済宗の円覚寺派管長だった朝比奈宗源(一八九一~一九七九)は以下のように語る。「自意識」は霧のようなもので変化し死後は消える。「だが、心の奥のものだけは絶対に変らないんです。それが私のいう『仏心』です。」

「今のこの心ですが、そのものの本体は、時間的にいえば、始めも終りもない、宇宙の始まる前から宇宙が亡びても変らない、永遠に生き通しのものです。その時間的に無限な心は、空間的にも無限で、宇宙を包んでいる。宇宙いっぱいなのです。地球が壊れたって心がなくなるなんてものじゃない」(『仏心に生きる』春秋社 一九八九年)。