「そんな顔しないで。良いところよ。みな一緒に入るんですって、だから寂しくないし、魂はきっとここから自由に飛び立つと思うの。海の見えるところで暮らすのが憧れだったの。気持ちいいわ。そして振り返ると、こっちは孝さんのいるところ。だから寂しくなったらそっちを向くの。そんな顔しないで。今すぐ死ぬってわけじゃないのよ。誰だって一度は死ぬんだから……

病気になっていろいろ考えたの。私は身寄りがないから、ほんとは孝さんのそばにいたいけど、それじゃあ自分の親と同じじゃない。許されないわ」

孝介は何もできない自分、何もしない自分に絶望的になった。

よし子の背中に腕を回し、抱き寄せた。

よし子は頭をもたせかけていた。

「なんていい気持ちなの……」

冬の光に輝く海はあくまでも明るく穏やかで、その静けさがなおさら孝介の辛さを引き出していった。

年が明けて、稲の準備まで農家は一息つくところだ。

正月でも美智子と由布子は戻ってこなかった。由布子は大学受験の冬季講習に通うと言ってきた。孝介も東京には行かなかった。

大寒を過ぎたころ、峠付近まで車を走らせた。また、岩の隙間から湧き出た水を、持参したペットボトルに満たした。暮れに見舞った時よし子は、少し風邪気味だと言っていた。病院にいるのだから風邪ぐらい治るだろうと冗談を言ったものだ。

外来を抜け、明るいテラスを過ぎて入院病棟へ向かった。広いガラス窓から、日差しが廊下の奥まで差し込んでいた。

ナースステーションにいた若い看護師に、木村よし子の名を告げた。看護師は顔を上げ、孝介を凝視した。言葉はなく、スッと立ち上がって奥に消えた。 

次回更新は7月26日(土)、19時の予定です。

 

👉『いつか海の見える街へ』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】自分が不倫をしているんだという自覚はほとんどなかった。

【注目記事】初産で死にかけた私――産褥弛緩を起こし分娩台で黒い布を顔に被され電気も消され5時間ほどそのままの状態に