本気で勝つためには、日本を本気で勝たせる指導者でなければならない。齊田の呼びかけに、張西を始め、周囲も本気になった。
「当時の指導者はみんな高校や大学の教員なので、ナショナルチームとはいえ指導 が学校教育の延長でした。インターハイで勝とう、インカレで勝たせよう。そういう世界のままでは何も変わらない。
でも同じ頃に韓国や中国、同じアジアが台頭し、世界で勝てるようになってきた。もうそうなれば体格や環境を言い訳にできない。あれから、大きく流れが変わりました」
その2年前の2000年のシドニー五輪男子フルーレ個人では韓国が金メダルを獲得。同時期に五輪の出場方式も変わり、かつては日本国内でのランキングのみが選考基準だったが、世界ランキングで定められた中に入らなければ出場権を得ることができなくなった。
フェンシングのみならず、シドニー五輪の成功を機に、オーストラリアのナショナルスポーツ拠点となるAISにならい、日本も2001年にJISSを設立。五輪競技の強化に本腰を入れて取り組み始めた時期でもあった。
ここで動かない理由はない。齊田は強い日本フェンシングを実現する環境づくりへ向け、本格的に歩み始めた。
欠かせないのが、太田雄貴の存在だ。
齊田がジュニアを指導していた頃から、太田はすでに頭角を現し、平安高時代はインターハイで前人未到の三連覇を達成。「日本フェンシング史上最高の逸材」と多くの期待を集めていた。