つい昨夜、あの彼女と愛し合っていた男の誘いを何故キッパリ断らなかったのか、紫自身にもよく分からなかった。いやらしい感じがなかったとはいえ、無謀だろうに。まあ売られるような年でもルックスでもないし、早々に無職だと言っておいたから、金目当てでもないだろうけど…。

ただ、ちょっとした好奇心、言ってみれば非日常を楽しみたかった、現実を忘れたかった。それだけだ。それは咲元のほうも同じだろう。

「彼女からラインとか、ないの?」

現実に引き戻すようなことを、敢えて言ってみた。ホテルの部屋から、彼女の荷物は消えていたのだ。さすがにメッセージのひとつもあっていいだろうに。

「あったねえ。」

咲元はどうでもよさそうに言った。

「なんて? あ、答えたくないならいいけど。」

「いや、別に…もう会わないって。だから分かったって、送ったよ。」

「近くにいるのかしら?」

咲元は首を振って

「新幹線から送ったみたいだ。さあもう彼女のことはいいから。次はどこに行こう?」

と話しを変えた。

少し安堵している自分がいた。この二人の恋の行く末がどうなるか見届けたい気持ちもあったし、ずっと恋愛どころじゃなかった紫は、ブラックな仕事を辞めたとたんにこんな形でちょっと好みの男性と知り合うなんて、嘘みたいなこの事態にときめき始めていた。そう、ちょっと、好みだったんだ。

ただ、浮気の当て馬にされると思ったら迷惑だし、こんなところに彼女が現れるのも勘弁して欲しかった。しかし彼女がいなくなったとたんに声をかける男だ、今だけのことだろう。

次回更新は7月4日(金)、11時の予定です。

 

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