【前回記事を読む】「主人は酔って帰ってきて、私を殴って寝るだけ。結婚なんて虚しいだけよ。私が何をしたって言うの」その派手なご婦人は涙を流し…
妄想
大金を手にして、太平洋へ行って、そこから富士山が見えたとしてもそこに希望がなければ恐らく元気は出ないだろう。
全く金が無く、休暇も無く、食べる物も無かったとしても。その先に希望があればどんなことがあってもへこたれず、多少調子が悪くても闇雲に前に突き進むことができるだろう。人間なんてそんなものだ。
栄養でも、休息でも、金銭的な余裕でもない。心を元気にしてくれるものとは、希望の光を見つけたときのアドレナリンだ。その光が確かかどうかということは問題ではなく、あるかどうかわからない光を信じて自分がキラキラしていられるかどうかである。
根拠もなく何かを信じていることは、時として馬鹿にされる。しかし、根拠もないのに全てを疑ってかかる人の目は濁っている。
尚且つ、自分自身をも信じられないとしたら、その人の元気の源はどこにあるのだろうか。
私にはないけれど、何かを守ることなのだろうか。真実などこの世にはない。真実を追い求めるよりも、いかに自分を信じることができるかが重要だ。
誰かが隣で腕枕をしてくれる。しかし、その人は目を閉じて、誰のことを想い浮かべているかなんて全くわからない。どんなに問い詰め、どんなにその人を縛りつけても、本当のことなんてわからない。
隣で眠る彼のことを、本当に大好きかどうか自分に問うた時、本当に大好きならばそれでいい。もしかしたら、この人は別の誰かを想い浮かべているかもしれない。
それでも私はこの人のことが好き。それが一番重要なのではないだろうか。
逆に、この人は私のことが大好きだけれども、私はこの人の隣で別の人の事を想い浮かべている。もしかしたら、この人だって別の誰かを想い浮かべているかもしれない。
しかし、自分だって別の誰かを想い浮かべているのだから、この人の胸の内の真相はどうかなんて考えてはいけないのだ。