祖父母は、熊本県の三角半島から船で二時間半ほど行ったところに浮かぶ天草諸島の上島にある、天草郡(現在は天草市)倉岳町という人口六千人くらいの町で山仕事をしながら農業を営んでいました。しかし、父の進学のために現金収入を得ようと故郷を離れて、遠く離れた福岡まで出稼ぎに出て、夫婦で昼夜を問わず炭鉱で働き、父を大学に通わせました。
父は飯塚市にあった明治専門学校(現在の九州工業大学)で当時エリート学部と言われていた鉱山学部を終戦後に卒業し、その後、田川郡(現在の田川市)で三菱炭鉱会社に勤めました。父は小中時代から秀才だったようですが、一人息子で大事にされ過ぎたせいなのか、自由奔放に生きる人間だったようです。
父と母は、父が学徒出陣で戦地へ行くかもしれないという時に、親同士が話し合って若くして見合いをし、婚約しました。父が海軍航空隊の予備学生として入隊後、終戦。明治専門学校を卒業して就職するのに合わせて所帯を持ったにもかかわらず、父の女性関係か何かで結婚生活も社会人生活も順調に進まなかったのではないかと想像します。
その後、昭和二十七年に二人の第二子として生まれたのが私です。私が物心つく前に両親は離婚し、離婚後に社宅を出た後、私は母と二人で田川郡の炭鉱町にある貸家に住み始めました。
そこで私は幼稚園に通い始めたのですが、母は貸家で小さな駄菓子屋を営みました。傍らでお好み焼きも販売していたので、当時の味は大人になって食べたお好み焼きより美味しかったことを今でも懐かしく覚えています。
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