はじめに
「あのような絵」とは人を逆さまに描いたり、家の中の様子をレントゲンで撮影したかのようにすべて見えるように描いた絵のことです。
また、空を描くときは、紙の上の方だけを帯状に青く塗ることもそうでしょう。運動会の玉入れの絵は園庭や運動場を真上から見たように描き、かごや人を正面や横から見たように垂直視と水平視を混淆させて描いています。他にも多くありますが「あのような絵」とは、こうした絵のことです。
大人から見れば、このような絵は「稚拙な絵」と思われるかもしれません。しかし、これらの描画の特徴は世界共通で、子どもたちの経験や年齢によって変化、発達していく、その時期にしか描けない子どもらしい表現の特性なのです。
室町時代に書かれた世阿弥の能楽指導書(秘伝)『風姿花伝』(1)(1400〜1402年)には、子どもの7歳頃(数え)の演技について、「自然とし出す事に、得たる風体あるべし」として、子どもの自然な表出や自発的な表現を尊重し、その時期の子どもの<花>を咲かせることが大切であり、あまり強く注意をすると子どもは意欲をなくしてやる気がなくなり、子どもの花は消え失せ能はそのまま止まってしまう、と述べられています。
これが執筆されたのは、<子どもの発見>でよく知られている、J.J.ルソーの『エミール』(2)(1762)よりも、360年ほど前のことです。
本書は、前半で、「子どもの描画の発達段階」の基本を記述しています。年齢段階における描画の特徴の記述です。
なぐり描きの時期から、前図式期、図式期、前リアリズム期、そしてリアリズム期から多様な表現の開花の時期という段階の特徴を、発達の必然性とともに説明しています。「あのような絵」とは、この発達段階に記されている前リアリズム期までの絵のことです。
そして、後半で、前半で記述した子どもの「あのような絵」を、なぜそう描くのか、先行研究を踏まえて説明しています。説明は、論理的に行いたいと思います。論理的とは、私の説明の中の理由や根拠が、説明の中の結論と矛盾しないようにということです。
その説明は、美術科教育学、認知心理学、神経生物学、教育学、保育学、美学、芸術論からの、先人たちの知恵の援用を通して行います。最後に、先行研究を踏まえた私のオリジナルの見方を記述しています。
子どもが、「あのような絵」を描く理由や根拠を知ることにより、子どもの絵についての関わり方や指導のポイントを具体的に知る契機になります。本書は、保護者や保育者、教師が、子どもの絵を介した子どもとの楽しいコミュニケーションのための一契機になれればと願って執筆しました。