第一章  生い立ち

軍人の父と高貴な母から生まれて

母の年齢はいつも簡単に思い出せる。母は大正十四(一九二五)年一月三日生まれ。従って、昭和の年号が母の年齢になる。

ちなみに祖母の周(ちか)は明治三十三(一九〇〇年)生まれで、西暦の下二桁が祖母の年齢になる。この二つの数字が私の「おふくろ」と「おばあちゃん」の年齢を思い出す基本となり、大変重宝した。

祖母の周は、戸籍にある名前であるが、私の記憶では「周子(ちかこ)」を名乗っていたような気がする。気品のあるおばあちゃんだった。

箏を弾き、趣味は「日本画」、「ろうけつ染め」。和服を着こなして高貴な雰囲気を醸し出す人。しぐさにも気を配り、孫娘の立ち居振る舞いに気がつくと躾をしていた。

祖父は原鼎三(ていぞう)、難しい字である。「鼎談」という言葉を聞いたことがあるので、辛うじて馴染みが持てた。

第二次世界大戦時、アンダマン諸島の海軍第十二特別根拠地隊司令官だった原鼎三中将は、艦長を務める艦の観閲式の際、家族が招待され赤い絨毯が敷かれ両側に乗組員が敬礼する中を歩いた様をなつかしげに話してくれた。

祖母から祖父の名前の講義を受けたことがある。「鼎」とは「かなえ」と読み、三つの足のある祭りに用いる器、王を補佐する三人の高官という意味があるそうだ。

海軍の軍人で、艦長も務めた人であり、艦隊勤務で家を空けることが多かったようである。

船から上陸して、帰宅すると先ず、障子の桟を指でさっとさすり、「掃除不十分」と言ったとか。祖父が帰宅するときは、祖母は緊張したという。