風の部 霧は、アンダンテで流れ行く

霧は、アンダンテで流れ行く

序章

お宮の横に、小さな川が流れていた。小川のあぜ道は、お宮の横から境内に続いている。空には白雲が浮かび、初夏の空が広がっている。

あぜ道には、雑草が続く。淡い桃色の小さな花が、あっちこっちに咲いている。ひろしは、祖父から「ムラサキカタバミ」と教えられた記憶があった。

「この道はどこに行くの?」

ひろしの後ろをこわごわついてきた女の子が言った。その女の子、早見リサは、この幼稚園へ転園してきたばかりなので、ひろしが何かと面倒を見ていた。人目を偲ぶように……。もし他の園児に気が付かれたら、きっと恥ずかしく思っただろう。

クローバーのような葉とカタバミの花で小さな花束を作ってリサに渡すと、リサは驚くような黒い瞳をした。

ひろしは、他の園児の後をついて歩いたり、真似をしたりする目立たない子どもだった。そんなひろしが、初めて自分から行動していた。

同じ頃からだっただろうか。毎年夏になると母はひろしだけを連れて田舎に帰省した。

長い時間電車に乗り、その後バスに乗り継いだ。バスを降りるとすぐ目の前に大きな門があり、そこから武家屋敷のような建物に入っていく。

建物の裏には大きな井戸があり、盥(たらい)に井戸水を張って西瓜が冷やしてあった。ひろしは縁側で着物に襷(たすき)掛けの祖母が切ってくれるこの冷たい西瓜が好きだった。

顔より大きな三角形の一切れ、真っ赤な実と皮の緑色が夏そのものだった。

井戸の片隅に白い花が咲いていた。

「ばーば、この花、何の花?」

「夏椿ですよ。あまり縁起の良い花ではないですけどね」

祖母はいつも着物を着て、もの静かな人だった。一緒に風呂に入ったことが何度かあったが、「首だけはいつも綺麗に洗う癖をつけなさい」と言われたことを覚えている。

男子たるもの、いつ介錯 (かいしゃく)を受けてもよいように、見苦しくないようにしていなさい、という意味であったらしい。