【前回記事を読む】「あなたってそういう人だったのね」好きだった担任の先生からの一言は、千津の心に深く刺さった…
「もはや戦後ではない」
本庄の家では、この頃、次々と事件がおこっていた。
次男の英二と、富士シネマで働く女との噂が、剛三の耳に届いた。
相手は、英二より十歳以上も年上の、二人の子持ちの戦争未亡人である。
英二は若年であっても、誰に対しても物怖じせずに接する、豪胆なところがあった。
二人が親密だという話を近所の人から聞かされたつねは、早速、剛三の傍らに行き、耳打ちをした。剛三は烈火のごとく怒った。英二を問い詰めて事実だと確認すると、いきなり彼を殴った。
英二も黙っていない。激しい言い争いが起こり、剛三は、「勘当だ。出ていけ」
と怒鳴った。
しばらくの間、父と息子は悶着した挙句、英二は町はずれにある女の家へと飛び出ていった。
次女のヤスはのんびりした性分で、長女のシゲが結婚し家を出た後は、弟妹たちの面倒も見ながら、家事や農作業に励んでいた。
そのヤスに、浜の網元の長男との縁談がもたらされた。
父親に言われて、相手の男と見合いはしたものの、ヤスは、
「嫁に行くのは嫌だ。このまま家に居るのがいい」
と結婚するのを拒んだ。
しかし、剛三は
「年頃になったら、女は嫁に行くもんだ。こんないい話を断ることはない」
と彼女の言い分を聞かず、縁談を進めた。
ヤスは、泣く泣く嫁いでいった。
一年半後、ヤスは生まれたばかりの赤ん坊を抱いて婚家から出戻り、その後は周りがどんなに説得しても、戻ろうとしなかった。
剛三も最後は、あきらめるしかなかった。 千津は子供ながらに、「結婚って、女の人が誰でも望むものではないんだな。大人になるってことはいろいろ大変なんだな」と思った。
剛三は、幕末に農業組合創設を唱えた、大原幽学の影響を受けた村落が出身地である。
幽学は、勤勉実直、質素倹約等を教えた農民指導者でもあった。彼の死後も、その教えは脈々と地域に受け継がれていた。
明治末期に生まれた剛三は、自分が思いたったら、それをあくまで貫き通そうとする頑固な面があった。尋常小学校を出ただけであったが、勉学にも常に意欲を持ち続けていた。
生家は子沢山で、三男坊だった剛三は学校を終えると大工の丁稚に出され、成人すると今度は婿に行かされた。人間にとって人としての道を守り、コツコツ真面目に働くことが大切なことであり、子供が親の言うことに従うのは当然、という価値観の持ち主であった。