一 『ゲーテとの対話』(上)を読みながら考える
ゲーテとエッカーマン
ゲーテの言行を丹念に書きとめた『ゲーテとの対話』は、ゲーテを尊敬してやまなかったエッカーマンの畢生(ひつせい)の作品で、二回にわたってまとめられた。一回目は、岩波文庫の(上)及び(中)に納められている第一部及び第二部で、二回目は、同じく岩波文庫の(下)に収められている第三部である。
一回目の出版の際のエッカーマンの感慨は、(上)に登載されている「まえがき」に次のように記されている。
エッカーマン「この二巻にまとめて私自身の財産ともすることのできたもの、いわばわが生涯の宝とみなすべきものを、私はいま、いと高き神の摂理に対する心からの感謝の念をもって、見まもらずにはいられない。
いや、それどころか、世の人びともまた、この私の伝達の仕事に感謝してくれるであろうことに、ある種の確信さえも私は抱いている。」(上一三頁)
第一部及び第二部については、在世中だったゲーテ自身も、折に触れて目を通したようである。
これに対して、二回目の出版は、第三部の「まえがき」の日付によればゲーテが亡くなった一八三二年の十五年後の一八四七年であり、ゲーテ自身の確認を経たものではない。このときのエッカーマンの感慨は、第三部の「まえがき」に次のように記されている。
エッカーマン「ついに、かねて約していた私の『ゲーテとの対話』第三部の完成をここに見るに至って、私はいま、大きな障害をのり越えたという喜びに感無量である。(中略)最初の二部の筆をとったとき、私はたしかに順風をはらんで進むことができた。
当時はまだ、聞いたばかりの生まなましい言葉がなお私の耳の中で共鳴していたし、あの驚嘆すべき人物と親しく接して受けた感動を、いわば生きる糧として生きていたので、翼(つばさ)に乗ってめざす目的地へ一路運ばれるのにも似た感がしたのであった。
しかしながら、あの声が途だえてからすでに久しく、あの人と親しくふれあう幸せも、はるか昔の夢となってしまっては、あのなくてはかなわぬ感動を手にすることが出来るのは、ただ自分の内部に沈潜し、何ものにも煩(わずら)わされずに瞑想に耽って過去を再び生彩あるものによみがえらせることが出来る時、過去が流動しはじめ、偉大な思想や偉大な人の面影が、山なみのように、遠くにありながらくっきりと、あたかも現実の陽光に照らし出されたように目(ま)のあたり屹立するのを仰ぎ見る時、だけにかぎられていた。
こうしてあの偉大なる人に触れる喜びの思いから、感動が私を襲ったのだ。その思想の道筋や口ずからの言葉が、一つ一つまるで昨日耳にしたばかりのようにありありとよみがえってきた。」(下九〜一〇頁)
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