この後、三代親成(ちかなり)、四代親直 (ちかなお)、五代直光 (なおみつ)まで、菊池一族の合戦には加勢のため出陣をした。
長享元年(一四八七年)の菊池・大友合戦で直光は戦功をあげた。同年秋、足利幕府との対立をやめ、幕府に仕えることになった。
六代の忠光は、明応(一四九二年~一五〇〇年)の頃菊池能運(きくちよしかず)(菊池氏二十二代当主)と不和になり明応四年(一四九五年)二月、肥後(熊本県)を立ち退いて近江(滋賀県)へ移り、さらに近江より三河へ移り住んだ。(『片山家文書』「覚」)
1 太田牛一、江戸時代初期。永禄十一年(一五六八年)~天正十年(一五八二年)に至る織田信長の一代記。
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