しかし、そうは思ってみても、気になることがないわけではないのだ。それは国元に残してきた瑞江である。妻として気になるのではなかった。猛之進は瑞江を剣客としてみているのだ。瑞江は鳳鳴流小太刀の遣い手として中目録を授与されていた。そのことがどうだと言うわけではない。
気に掛かるのは、瑞江が祖父から谷口の家に伝わる鳳鳴流不敗の剣を授けられたと耳に挟んでいることだ。今の所その技が負け知らずかどうかは知る由もないが、大仰(おおぎょう)に不敗と名付けられたからにはそれなりのものなのであろう。
須田の家に瑞江が嫁して数年経ったとき、好奇心からではあるが訊いてみたことがあった。すると流派にそのようなものがあるとは耳にしたことはないと言う。瑞江の返事はにべもないものであったが猛之進は言葉通りそれを鵜呑みにしたわけではなかった。いずれにせよ、どのような剣技であろうとも斬り伏せてやるだけだ。鳳鳴流小太刀不敗の剣などとは笑止……武州が江戸に近いとは言え、たかが知れた田舎剣法など何するものぞである。
そう思う傍ら日々の方便(たつき)にも困る猛之進であった。
江戸に出てから半年ほど前まではある道場の師範代を勤めていたのだが、突然現れた道場破りに負けてそこに居られなくなったのだ。とは言うものの、それは表向きのことで道場破りとは結託しておりまんまと五十両の金をせしめ二人で山分けにしたのである。先立つものは金である。
国元を出奔するとき三十両の金子(きんす)を懐にして出たが、道場の師範代という仕事を得て油断したのだろう。気がついてみると重ねた歳月で使い切ってしまっていたのだ。そこで考え出したのがこの企てであったが、悪銭(あくせん)身に付かずとはよく云ったもので知らぬうちに消えてしまったのだった。
家宝の一振(ひとふ)り郷則重は肌身離さず持ってはいたが、これを質草にしようかと幾度考えたことか。国元から変わらず腰に挟んでいた大刀は疾うに竹光に変わっていた。それだけに敵に遭遇したときのことを考えると、則重を手放すことなどできるわけもなかった。
だが、目の前に五十両の大金があるのだ。そう思えば貧窮のどん底にいる身としては、その誘いに屈しないでいるのは極めて困難だった。長屋暮らしには慣れたが食うや食わずである。追っ手が現れたときに力が出せず斬られたのでは何にもならない。それにこのような状況の中にいてはそうなるまえに病にも取りつかれ兼ねない。
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