姉は女学校を卒業して、女子挺(てい)身隊員としてアルミ工場で働いていたが、敗戦と共に挺(てい)身隊が解散になり、その後は近くの家内工業の町工場へ、作業の手伝いに通っていた。

次いで、父は私に「おまえは学校を続けたいか」と尋ねた。私は即座に「続けたい」と答えた。わが家の事情をよく承知しながらも、あと二年余りどうしても行きたかった。

小学校のころから「学校の先生になりたい」と思っていた私は、とてもその為に上の学校へ進めるとは思わなかったが、ともかく女学校だけは卒業したかった。父も無理に「やめろ」とは言わなかった。

やがて弟は学校を中退して、前田さん方で住み込みで働くようになった。父にしても弟にしても、どんなに辛い思いであったことか。

その年も師走に入ったある日、学校から「先生方の越年資金の為の、寄付のお願い」という保護者あての文書が配られた。それを見て私の胸は暗くふさがり、できることなら親に見せたくないと思った。

が、「寄付のお金を持って行かなかったら、学校におられなくなる」そう考えると、その文書を勝手に握り潰(つぶ)すことができなかった。私が差し出した紙切れに目を通した父は、黙ったまま何も言わなかった。

数日してお金を手渡された私は、その何枚かの紙幣に、父の血と汗が染みこんでいるのを感じたのだった。寄付は強制ではなかったかもしれないが、お金を出せなくて何人かのクラスメートが退学していった。

失業者が溢(あふ)れていた時代、ある一部を除いてはどこの家も苦しかったに違いない。

自転車泥棒

その日は雨が降っていた。夜の九時近くにもなっていただろうか。

「ちょっと、そこまで送って行ってくるわ」そう言って姉は、その日は休みで、久しぶりに家に帰っていた弟と連れ立って出かけた。表の戸の閉まる音を聞きながら、私は玄関とはガラス障子一枚隔てただけの次の間で、宿題をしていた。

側で朝の早い両親がすでに眠りについている。その妨げにならないように電灯のコードを低く延ばし、灯りを卓袱台(ちゃぶだい)の近くまで下ろして宿題の勉強に余念がなかった。

暫(しばら)くして弟を送って帰って来たらしい姉の声がした。「なんで表の戸を開けてあるの?」私は「誰も表の戸は開けへんのに」と不審に思っていると追い打ちをかけるように、「自転車が無い!」と姉が叫んだ。

「えっ」慌ててガラス障子をあけると、目の前の通り庭に通じる三和土(たたき)に、父が在宅の時はいつも置いてある自転車は無く、雨にぬれた数個の地下足袋の跡が残っているだけだった。

「自転車を盗られた──」私は気が動転した。父の大切なである。その日暮らしのわが家にとって、それは大きな痛手だ。「どうしよう……」るす番をしていたのは私だ。頭の中は責任感で一杯になった。

 

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