原稿は昭和21年と昭和23年の2回、出版の寸前まで行きながら何かの理由でお蔵入りとなっていました。
終戦翌年の昭和21年(1946)に共産党内で小林多喜二の全集編纂(へんさん)委員会が作られました。
編纂委員の手塚英孝は昭和21年(1946)もしくは昭和22年(1947)に小樽を訪れました。
朝里の佐藤チマ(多喜二の姉)に会って、多喜二が使っていた数冊の原稿帳を受け取りました。その時に母セキは北海道にいなかったようです。
手塚英孝は秋田に寄ってセキに会いました。後の資料となる様々なことを取材して、多喜二に関する種々の承諾を得ました。
昭和49年(1974)に映画「小林多喜二」が封切られました。その映画パンフレットに手塚英孝は「小林多喜二と私」という文章を寄せています2。
それには「戦後一年半たった頃、私はそれまで勤めていた共産党の文化部をやめて、それまでの仕事をひきついで完全な小林全集をつくる仕事に専心するようになりました。
四十一歳のときです。その秋、北海道へ資料の調査にはじめてでかけましたが、ゲートルを巻いて、リュックを背負い、握飯を用意する状態でした」と書かれています。
1 小林セキ、小林廣、荻野富士夫『母の語る小林多喜二』 新日本出版社 2011年
2 手塚英孝『小林多喜二と私』 映画「小林多喜二」パンフレット 1974年
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