また多喜二は昭和8年(1933)2月20日に築地警察署で暴力的な取り調べ中に死亡しました。

葬儀は警察の監視下で行われましたが、原稿用紙に書かれた3枚の香典控が残されています。これに志賀直哉と並んで帝国陸軍軍人の名前が記されていることを知る人はいないでしょう。

多喜二より2歳 10ヶ月年上の従兄である小林太郎、私の祖父です。

太郎は昭和3年(1928)の天皇即位の大礼の時、地方賜饌(しせん)式に招かれています。大東亜戦争の終盤には択捉(エトロフ)島を守っていました。今の北方領土です。

ソ連による武装解除の後はシベリアに抑留されました。私が3歳の時なので覚えていませんが、太郎の葬儀にはセキさんが参列していました。

祖父太郎からすると私は長孫なので、頭のひとつも撫でられたかもしれません。また苫小牧には多喜二の妹ツギさんが住んでおり、よく祖母のところに遊びに来ていました。

当時は「幸田さんのおばさん」と呼んでいました。お兄さんの話ばかりしていたので、よっぽどお兄さんが好きな人だと思っていましたが、兄とは多喜二のことでした。

多喜二は「自分の中の会話」の冒頭で大名と地主と武士の血を引いていると書いています。地主の件は多喜二研究書が書いていますが、武士や大名のことは知られていません。

本書では今から400年を溯(さかのぼ)って知られざる多喜二の先祖も明らかにします。

第1章 情報源

多喜二の母セキ口述による「母の語る小林多喜二1」が平成23年(2011)に出版されました。

これは当時小樽商科大学教授の荻野富士夫氏が、小樽文学館に埋もれていた原稿を見い出して出版に至ったものです。

この書籍の成り立ちは重要です。朝里(あさり)に住んでいた編者の小林廣が多喜二の13回忌にあたる昭和21年(1946)3月頃に、近所にいた母セキから聞き取った内容が基になっています。

小林廣は後に多喜二の姉チマと結婚した佐藤藤吉と幼なじみです。姓は小林ながら親戚関係ではないようです。