翌昭和二十年、長男が生まれ百日で亡くなりました。昭和二十一年、父の結核は治っていましたが、母は次の子を身ごもっていました。やがて生まれた子が次男、私の弟です。
母はその頃、結核を発病していたのかもしれません。産後の肥立ちが悪かったのですが、頑固一徹の人だった祖父は、「病は気から」と言い、結局悪化させてしまったのでしょうか。
戦後の結核の猛威がすさまじかったことは、歴史上知られた事実です。治療が必要だと知った祖父は、目に入れても痛くないかわいい娘のために、必要だという薬を買うためには、金に糸目を付けず、つぎ込んだのです。
祖父たちは、戦後、進駐軍の仕事をしており、結核の治療薬の「パス、ヒドラジト、ペニシリン等」を進駐軍から調達したり、いわゆる「ヤミ」で、それらの薬を高額で買ったそうです。しかしながら、病は次第に母を蝕んでいき、物心付く頃には結核療養所へ隔離入院させられておりましたので、私も弟も母をよく知りません。
祖父たちは杞柳(きりゅう)製品(注※)を作る手工業的工場(多い時には職工さんを九十人程使っていました)を経営していました。
(注※杞柳製品には、代表的なものとしては、材料のコリヤナギの枝を丸のまま使った柳行李があります。また、枝を割ってひごにして編んで作る細工物があります。当時、北信濃はコリヤナギの産地で、田んぼには、挿し木した枝がまっすぐに伸びていました。幼少の頃、見て記憶していることですが、刈り取った枝の皮を剝ぎ、硫黄で蒸して漂白する蒸し釜が裏庭にありました。白い湯気と硫黄の独特の臭いを思いだします。蒸して漂白された枝が細工の材料になります。それを乾燥して割って編み込みに使うひご(竹ひごと同じようなもの)を作ります。そのひごなどで「買物かごやバスケット、缶詰かご」などを作っていました)
戦後の経済変化の大きな波はわが家にも襲いかかりました。母の治療のための多額な医療費がかさむ中で、一番の痛手は「新円切り替えによる預金封鎖」でした。
料亭を処分し銀行に預けていたお金が使えなくなったのです。人件費のかさむ杞柳(きりゅう)製品を作る手工業的業界は、科学的資材による加工が楽な製品が作られてきて、次第にさびれていって、倒産という憂き目を見ます。