【前回の記事を読む】戦後・日本が貧しかった時、家族はドミニカ共和国への移住を決めた。「カリブの楽園」と謡われた国で物語は始まる―。
第一章
(一)猛獣の声
深夜。まどろみの中で猛獣の声が聞こえ、目が覚めました。
『かなり近い……。ん? ゆれていない……ここは?』
慎ちゃんが安定したベッドで寝ているのに気づくまで、しばらく間がありました。
『そうだ……昨日、ダハボンに着いたんだ……』
ダハボンはドミニカ共和国にある人口二万人ほどの街。国土は関東平野のほぼ二倍半で、スペイン語を母語とする。コロンブスが一四九二年に最初に発見したカリブ海の島国の一つです。
キューバの東南に位置し、フランス語を話す隣国ハイチと島を分けあっています。このころから独裁者として知られていたトルヒージョ大統領は、一九四〇年代にドミニカはこのハイチとの歴史的な戦いに勝利し、島の三分の二を自国としました。当時、慎ちゃんたちが来たときはまだまだ両国は緊張状態にありました。
一九五七年二月五日に横浜港を出て、ドミニカに着くまで、1カ月間、船底でへばりつくような生活をしているうちに、慎ちゃんの体臭になっていた船の新しいペンキのにおいはもう消えていました。じゃばら式の木窓からもれて見える空はまだほの暗く、遠くでニワトリが時の声をあげていました。
(でも、確かさっきすごい声がしていたと思うんやけどなあ……)
夢にしては生々しい悲鳴のようでもあり、もの悲しく、頭の中にその声がかすかに残っています。隣のベッドで寝ている七歳の弟の譲二ちゃんのかげが、うっすらと見えました。
(譲二ちゃんには聞こえなかったんやろか……)
きっと丸太のようにぐっすりねむっているのでしょう。昨日の夜、おそくまで父さんと同じ福岡しげとめ県出身の重留さん宅で、歓迎の夕食と、久しぶりに真水の風呂につかって、家族全員長旅のつかれがどっと出たのです。
「ヴーアッ、ヴーアッ、ヴーアッ、ヴー」
突然、まるで耳元にスピーカーがあるとしか思えないほど大きな声がはっきりと聞こえました。この声。この声で起こされたのです。ほんとうに怖くなりました。
(どんなかいじゅうがこの国にいるんやろ。日本を出たころ、はやっていた「ゴジラ」とか「アンギラス」、それとも「ラドン」の仲間のようなやつ?)
耳をすますと屋根のず〜っと上の方から、かすかに「キー、キー」と何かが鳴きながら遠ざかる声も聞こえてきます。
(映画の「ドラキュラ」が、姿を変えたコウモリの群れ?)
耳をすませばすますほど、家の外からさまざまな音が聞こえてくるのです。怖いお化け映画なんかへっちゃらで、弟が指の間からこわごわ見ているのをからかっていた慎ちゃんなのに……。