スローモーションのように亜美は歩いた。廊下には誰もいなかった。突き当たりを左に曲がると「手術中」の赤いランプがあった。このドアの向こうに亜矢がいる、顔も知らない亜美の母が。

寂しい時、悲しい時、亜美はいつの間にかこのドアの前に来ていた。決して開かないこのドアの前に。メスを握った手に力が込もる。

「そうだよ亜美」

 ──そうだよ亜美──

【デビ】の声がエコーのように尾を引いた。

ポタンと垂れたのは血だ。床に落ちて丸くなった血痕(けっこん)が二滴、三滴。

血はメスを握り締めた亜美の手から床に落ち、鮮赤色 (せんせきしょく)のドットを作っていく。

不意に肩に誰かの手がかかり、亜美は弾かれたように振り向いた。そこには見知らぬ少年が立っていた。

会ったこともない背の高い少年。

だがその目には強烈な親しみを感じた。メスを握っていた手が急に痛み出した。出血に驚いた亜美が手を開くとメスは音もなく床に落ちた。またも亜美は無音の世界にいた。

汰央(たお)は持っていたハンカチを亜美の手に巻いた。その背の高い少年が自分に何かを伝えようとしているのが亜美にはわかった。すべてがスローモーションだった。

手を耳の後ろに当てている。何かが聞こえるらしい。亜美はこの音のないスローモーションの世界で聴覚をフル稼動させる。一体何が聞こえるというのか? 大いなる好奇心が亜美の鼓膜を震わせた瞬間だ。

♪ I  love  you,OK この世界に たった一人のおまえに……

向き直るとドアが大きく開いていた。汰央が横にいたが亜美の目はただ一点に釘付けになっていた。

「お父さん……」

雄一だ、マイクを持った浴衣姿の雄一がステージで歌っている。

「君のお父さん?」

汰央の言葉に無言でうなずく亜美。そしてハッとした。

「あなたは?」

「狢じゃないよ」

「え? 知ってるの?」

「声が聞こえたんだ。君、亜美だね、僕は汰央」

「タオ……」

「ねえ、この歌なんていう歌なんだろう?」

「たぶん矢沢永吉のアイ・ラブ・ユー,OK」

「確か前にも一度聞いたことがあるんだ、親戚と温泉に行った時」

「温泉?」

「うん、寿楽園(じゅらくえん)っていう所」

「えっ、私もそこへ行ったよ」

「お父さんこれ歌ってた?」

「たぶん」

「もしかしたら一緒だったのかもね、僕たち」

「そうかもね」

「そうか、君のお父さんだったんだ」 

 

 本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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