第4章 合目的的なる世界
第4項 合目的の寂しい世界
3 棋界に吹く風
一つハッキリと断りを入れると、私は特定の棋士の在り方を、とりわけ混迷の入り口に入ったばかりのこの時期にあっては尚更に、否定する意図はない。問題が立ち上がり、それが未曾有のものであるなら一層、それぞれの立場や意見を持つものが大いに騒ぎ立て、それを俎上(そじょう)に乗せ、これからの向きを模索すべきと考えている(その方が賑やかだ)。
私は千田翔太六段の在り方を否定するつもりはない。どころか、今から百年とか二百年の後に、生身の人間が生(なま)の判断を面前互いにぶつけ合うなどという野蛮な行為が、時代として、その煌(きら)びやかに壮大なロマンを大河ドラマに懐かしく思い出される頃には、将棋界はまたとない大河の舞台になりうるであろうし、その際、千田六段は欠くべからざる主要なキャストになることは間違いないと考えている。
何より、異色の棋士などと言われてもいたが、千田六段の強さと向き合う姿勢の正着(の可能性)をより深く知っているのは他ならぬ棋士であり、かつての居飛車穴熊の様に、程なく盤石の主流となるのだろう。(ともあれ、私の見解を主に千田六段の見解にぶつけるような形が多くなってしまう点は否めない。私はシャドウ・ボクシングの時にイメージとして相手を浮かべるように、自らの言説を千田六段のそれと戦わせている。彼が最も鮮烈に痛烈に棋界のこれからの在り方について“断定”していたからだ。)
問題は、彼の言説の説得力としての一人勝ちにある(メディアの取り上げ方と、私がこの問題について話題を交わした人の意見や感想という、限られた参考資料での私の感想ではあるが)。人工知能を崇拝しながら着々と勝ち星を重ねていく。前線に向かって躍動する銀将の様に、棋界にあって最も伸び伸びと発言し、理論は整然とし、盤の内外を跨(また)いだ自信確信にも満ちている。