社会構成主義というのは、私たちが「確か」だと思っていることは、万人が「確か」だと思っていることなのかという疑問から始まります。
例えば「机」があります。これは確かに万人が「つくえ」と呼称します。今は机をみて「いす」という人はいない。それは確かです。
でもこの「机」が「つくえ」と最終的に命名される前にはいろいろな人がいろいろな立場で「発言を繰り返した」のでしょう。そのいろいろの議論の結果として、社会的にはこれで収めておこうという話になって「つくえ」ということになったように思います。
すなわち命名された「つくえ」はいろいろな人がいろいろに考え、そしてその考えを戦わせて作られた妥協の合意=結論に過ぎないのではないかと考えるのです。この辺についてケネス・ガーゲンとメアリー・ガーゲン2は
「社会構成主義の基礎的な考えはとてもシンプルなようでいて、非常に奥深くもあります。私たちが『現実だ』と思っていることはすべて『社会的に構成されたもの』です。もっともドラマチックに表現するとしたら、そこにいる人たちが、『そうだ』と合意して初めてそれは『リアルになる』のです。3
この意味からすれば私たちは『絶対的な事実』によって生きているのではなく、人々の対象への意味付けによっていきているのだということなのでしょう。だから事実には多様な意味がそもそも内在しているのではないかと考えるのです」と述べています。
ガーゲンは死をめぐる様々な言説について述べています。4
“Aさんが死亡しました”、と言う場合、普通は「生物学的な死=心臓の不可逆的停止」をいうが、ある文化的な文脈では「昇天」とも言うし、「あのひとは今も私の中で生き続けている」ということもあるでしょう。
森岡正博さんは「人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。……」5といいます。