こう叫んで彼は思わず立ち上がっていた。これまで過激な言動もなく、大声を上げたことが一度もない彼の大音声のどなり声に一同は一斉に彼の方を振り向いた。

「まず、座ってくれ。私の言い分も聞いてくれ」

彼は全員の目が興味ありげに注がれていることを感じながら、言葉を和らげて、立ち上がっている藩士たちを鎮めようとした。彼はこれまで中立的な立場をとり、ともすればぶつかり合う両派の間に立って調整しながら藩主の相談役を務めてきた能吏としては評価されていたが、積極的に藩論をリードしていくような人物とは思われていなかった。

それが人々の関心を引いたのであろう。立ち上がった人々もしぶしぶ座り、彼の発言を待った。

「今わが藩は、選択をあやまれば滅亡しかねない存亡の危機に直面しています。しかも選択し得る道は二つしかなく、その道は先ほど渋谷殿がたとえられたように父を取るか母を取るかというに等しいほど、難しいものであります。

あるいは木俣様が言われたように、歴代の徳川家の家来として徳川家に忠節をつくすか、それとも渋谷殿が言われた親である朝廷にお味方するか、言い換えれば忠を取るか孝を取るかというような間題であります。そしてこれはまさに、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、という二律背反する間題であります」

彼は、ちょっと躊躇するように言葉を切った。

「しかし、私はいくら考えても、この問題に答えを出すことができない。どちらの答えも正しいからです。そこでこの問題ばかりを議論しても答えは出てこない以上、別の角度から考えてみました。

今武士として命を賭けて行動しなければならない時に、私は誰のためなら命を捨てることができるか、ということです。この答えはすぐ出ました。ご主君のためです。代々井伊家から扶持を頂いている武士として、ご主君直憲様のためにどうするのがよいか。それだけを考えることにしました」

「では、どちらを選ぶというのか、朝廷か幕府か」

という声が飛んだ。

「それとも尻尾を巻いて逃げ出すというのか」

という声も上がった。

「井伊家のため、彦根藩のためだけを考えれば、私の答えは朝廷のお味方をすべきだ、というものです」

「なぜだ!」

「徳川家を裏切れというのか」

という声があちこちから聞こえた。

 

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