「加田の乱」の終結以降、倒閣運動は消滅した。それに伴い、永田町では森永総裁派閥からの候補者擁立の動きが始まった。

民自党神奈川県連合会事務局では、梅田幹事長を中心に候補者選考がすでにスタートしていたが難航していた。

大川座長の主宰する神奈川フォーラムが推薦する候補者と、森永総裁派閥が推薦する候補者との一本化の調整がつかなかったからである。

渉太郎は、大川先生から立候補の打診があって以来、家庭内の調整に時間を要した。まずは妻、敬子の協力が不可欠だと考えた。

しかし、

「会社を辞めて、家族をどのようにして養うの」

学生時代から渉太郎を知る妻は眉根を寄せて真剣な顔で詰め寄った。

「立候補までの期間は退職金でなんとかする。当選すれば歳費で家族を養うことができる」

渉太郎は自信を持って答えた。

「当選しない場合はどうなるの」

妻はなおも執拗に食い下がってきた。

「民自党の公認が取れるのだから、当選できないはずはない」

渉太郎は胸を張って「当選」を強調してみせた。

「選挙運動の資金はどうするの」

矢継ぎ早の問いかけに苛立ちを隠せなかった。妻も家庭を守るために必死であった。

「党の援助と賛同者の浄財でなんとかする」

確固たる見通しもなく妻の問い質しにやっとの思いで答えた。

敬子は、幼い頃から成績優秀の誉れ高く、今は航空会社に勤めていた。安定したサラリーマン家庭に育ち、希望通りの会社で、仕事と子育てを両立していたいわば労妻(ろうさい)賢母であった。

渉太郎は大川昇一の主宰する神奈川フォーラムで世情や国際情勢を学び、さらに仕事で経済界や中央官庁の要人と会う機会を得ることで、祖父が政治家であったことに胸の中が動いた。

立候補して政治家になることを密かに夢見るようになった渉太郎と、穏やかなサラリーマン家庭の中で、子どもたちを健やかに育てたい敬子との人生観の違いによる葛藤が生じた。

母和子と敬子の人生観は通じるものがあり、このことは渉太郎には痛いほど分かっていた。決して詐妄(さもう)する気持ちなど露ほどにもなかった。

血が騒いだとしか言いようがない。渉太郎は世のため、人のために役立つ立派な政治家になることで家族と母の和子も理解してくれると思った。

結局、子どもたちも含めて喫緊の立候補について、家族で協議することになった。

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