長瀬 律

「半僧坊のバス停前の自転車屋さんって、今でもやってるのかな?」

「あぁ、橋本自転車な。どうかなぁ。つぶれたような気がする」 

「そっか。やはり自転車があると便利だよね。行動範囲が広がるよね」

彼女は毎日時間を惜しむように、八事の埋もれた歴史を探すため奔走していた。

「ママチャリだけど、おふくろのを使えば?」

「無理だよ。悪いよ」

「おふくろは使ってないぞ。うちのおふくろのことは知ってるだろ。なくなったと気づくのに五年はかかる。さらに、今はMちゃんのことで頭がいっぱいだ」

この年の十月、昭和の菩薩と評された歌手が共演した男優と結婚し引退する。

「あはは、福子おばさんかぁ。会いたいなぁ」

「今度うちに食事においでよ。おふくろが喜ぶ」

「無理無理無理。あんなに良くしてもらったのに、今までろくに連絡もしてなかったんだよ。その上食事に行くなんて、そんな厚かましいこと絶対無理!」

「よく言うよ。勝手にあがり込んで、俺より先にメシ食ってお茶すすってたくせに」

「あはは、あったね。そんなこと。若気のいたりだ」

彼女はよく笑った。幼い頃の共通した思い出が二人の距離を縮めてゆく。

おふくろに沙耶伽と働いていることを伝えて良かったのか、悪かったのか。

話をした翌日、開店と同時におふくろが店に飛び込んで来た。

一目散に沙耶伽に駆け寄り、人目を憚らず抱きしめ泣きじゃくった。そんなおふくろに、沙耶伽も目を潤ませていた。

その日以降沙耶伽は度々我が家でお風呂に入り、食事を共にするようになった。

中学まで人見知りの激しかった彼女が、今では人の心に沁み入る笑顔を振り撒いている。そんな沙耶伽に晩酌されるおやじは鼻の下を伸ばして杯を重ねた。

おふくろは人一倍おせっかいだったが、デリカシーは持ち合わせていた。

北海道に移った後のことを、あれこれと詮索はしなかった。彼女のアパートの環境や身に着けているものを見れば、決して暮らし向きが豊かでないことは察せられた。

ただ芽衣おばさんの安否だけは尋ねた。精肉店を営む際、少なくない借金をしていたことをおふくろは知っていたのだ。

芽衣おばさんは、昼はスーパーで、夜は週三日小料理屋さんで働いているらしい。

女手一つで娘を育てた苦労はあったであろうが、沙耶伽もそれ以上の説明を避けた。

彼女が食事に来たときは、僕がおやじの車でアパートまで送り届けた。

秋まつりのお囃子がどこかから聞こえてくる中、僕たちは唇を重ねた。乾いた心に、沙耶伽が沁み込んでくるのがわかった。