1、にゃん太郎物語
僕はたびたび、智子ママの隙を見て散歩に出かけた。ボス猫がいなくても、一人で自由に遊んで満足して帰る日も多くなった。すると、もう体や足を拭くだけでは許せなくなったのか、智子ママは風呂場に僕を連れていった。
「ノミやダニが付いているかもしれないから、きれいにしようね」
猫用のシャンプーで洗うようになった。人間には石鹸の泡も、ぬるま湯のシャワーも気持ちいいらしいが、僕は大嫌いだ。狭い風呂場の中では逃げようにも逃げられず、僕は「助けてえ」と叫びながら、ずいぶん抵抗したが敵わなかった。
あんなに毛並みの良かった僕の体はびしょ濡れになり、貧相な姿になってしまった。タオルで拭いてドライヤーで乾かそうと、智子ママは必死だった。途中で何とか逃げ出して二階の窓辺にいき、自分でグルーミングして自然に乾くのを待った。自慢の黒い毛がふわふわになると、しばらくは艶がなくなってしまった。そんなことが何度か繰り返された。
いつしか僕は十歳になった。人間なら五十代半ばらしい。もうすぐ還暦だ。あまりじゃれたりせず、昔よりおとなしく落ち着いてきたと思う。
芳江さんは結婚して家を出ていき、智子ママと二人の静かな暮らしが続いていた。智子ママが僕に人間の家族のように話しかけてくれると、何となく気持ちが通じ合えるような気がして、お互いに寂しくない。動くのが面倒くさいときには、近くにある人間のトイレや洗面台でもおしっこをした。僕はだんだん人間に変わっていきそうな気がする。取っ手に飛び上がって、ドアを開けたりもできる。すると、いじわるな智子ママはわざと言うのだった。
「にゃん太郎、トイレの水は流さないと、臭いじゃないの」
「にゃん太郎、ドアを開けたら閉めなさい」
どんなにお利口な僕だって、それは無理というものだ。人間じゃないから、振り返るより前進しかできないのだ。たしかに智子ママも年をとってきたせいか、僕のご飯やトイレの始末などの世話は大変だけど、よくやってくれてありがたいと思っていた。
ところがある日突然、建具屋さんがやってきて、ドアを取り換え、二階の和室にカギが取り付けられたのだ。
僕の仕業(しわざ)で傷だらけになった部屋のドアや襖も、すべて直すことになったらしい。僕がジャンプして取っ手を緩めて開けられたドアも、少し高いところに取っ手を付け替えられたので届かなくなった。勝手が変わって、自由に部屋の出入りができなくなってしまった。