最近は部屋に近づくのも胸が締めつけられ、後ずさり気味の気持ちになったが、今日は落ち着いていられた。じっと耳を澄ませたが返事はない。もともと返事は期待できなかったが、もう一度ノックを、少し強くした。
「お母さんです。入ります」
最近の怯えた細い声ではなく、昔の、張りと温かさと落ち着きのある、母親らしい声だった。躊躇することなくドアを開けると、中は真暗だった。
「さあ、起きなさい」
実知が電灯を点け、枕元に立ったが知数は動きがなく、布団をかぶって丸まっている。
「今日はとても大事な話があるのよ。どうしても聞いてもらいたい大事なことです。未知夫君が自殺しました。お気の毒だけど他人事ではありません。私も近頃は死ぬしかないと考えていました。でも、今日お前と話し合って、何とかやり直してみたいと考えたんです。
さあ、起きて下さい。お母さんが必ずお前を助けてあげます。生命を張って助けてあげます。いろいろ勉強したし、参考になる話も聞いてきました。確かな望みが持てると思います。
今までの治療は確かに効果がなかった。けれど他に効果のある方法が必ずあるはずだ、と気付いたんです。本当の原因を突き止めて、それを除去すれば治るのが当たり前だと思うでしょう。
今までの治療はその的が外れていたから、私もお前が悪くなるのを見ているしか仕方がなかった。残念だった。でもとてもよく治る例が幾つも出ているの。それが誰も思いもよらない歯医者さんでの治療なのよ。知数、きちんと聞いてよ。みつる歯科の草介先生がね……」
知数が布団を撥ねのけ、ガバッと起き上がった。
「ウルセーなあ、歯医者がどうしたんだ! 騙されるんじゃねえ。歯なんか関係ねえじゃねえか!? 今までだって医者に騙され続けてきたんだ。今度は歯医者かよう。オレはもう騙されねえ。もう治らねえのはわかっているんだ。放っておいてくれ!」
叫ぶように言うと知数はまた布団をかぶってしまった。腕を組み、実知は暫く考えた。もうあとがないということがわかっているためか、覚悟のような落ち着きがあって、知数の反応に失望することはなかった。
「反応してくれた。話してくれただけずっとましだ」
実知には受け止める余裕があった。もうあとはない。引くことができないのは明らかだ。
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次回更新は1月31日(金)、21時の予定です。
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