暫く俯いて考えていたが実知がおずおずと顔を上げた。

「先生の所で不登校が治ったという話が耳に入っていました。それでいつか先生に相談してみるしかないと考えていたのですが。でも、歯で不登校が治るはずがないとか、いろいろ言う人もあって……。困り切って養護の湯本先生に相談しました」

「湯本先生が私を勧めることはちょっと考えられませんが、何と……」

校医や学校歯科医がいて、医師会や歯科医師会との関係が深く、その指導や協力の下で学校の運営に携わる立場の職員が、学校歯科医ではなく、歯科医師会からの評判も良くない草介を勧めるはずはないのだ。否定的な意見を述べるのが普通だ。

「湯本先生は、う、うーん……と顔をこわばらせていました。そして、私はもう定年だからいいんです。でもね、知数君はこれからの人ですから、きちんとね……と言葉を濁していました。そのきちんとした方向が見える良いお考えがあれば教えていただきたいのです、と私は必死で聞きました」

困り切って真剣に迫ってくる実知の顔を見つめていた湯本は、言いづらそうにこう言ったのだった。

「周りは煩いから……言ってもらうと………でも、もう定年だから。それに不登校とは全く関係ない科じゃないかと言われると思うので、公には、あれなんですけど。そう言ったんです。私はピンと来て、歯科の先生ですか……と聞いたんです。湯本先生は曖昧に頷かれました。きっと三鶴先生の所で良くなったという、私と同じ話が伝わっていたのだと感じました。それで……」

実知が伝える湯本の態度と言葉の裏側が、草介にはよく理解できる。組織やその影響力を斟酌(しんしゃく)しながら、自分の考えを主張することもなく生きている人々の群れがいつも草介の目に浮かんでいるが、そんな人間の姿が草介は嫌いなのだ。そんな人間の群れの中では、湯本の態度は勇気があると思う。

「先生、お願いします。今まで、思いつくことは全て、できる限り手を尽くしてやってきてみましたが、知数の状態は悪くなるばかりで、この先に悪いことだけしか頭に浮かびません。

最近は我が子が人間でないようになってしまって、私の方も狂いそうなんです。主人は黙り込んでしまって、何も言ってくれなくなりました。仕事も大変なのか、暗い顔になってしまって………」

「ちょっと待って下さい。お話を聞いて治るならば、いくらでもお聞きしますが、そういうお話を聞いても何の役にも立ちません。合理的な必要最小限の手を打つ以外、皆無駄なんです。

これまでどれだけ時間と努力を払ってきたんですか。それでも治らなかったでしょう。合理的な対処ではなかったからだとわかりませんか。とにかく一度本人を連れてきて下さい。

顔写真だけでもお持ちならば、それでも大体の診断はつきますが、正確には本人を診ないとわかりません。本人に一度きちんと話してみて下さい。甘やかした言い方やウソはダメです。

本当のことだけ言って、あとは本人に選択してもらって下さい。ずっとこのまま悪くなって廃人のようになる道を行くか、元気になる道を行くか、本人の選択です」