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三十代となったつねは、しだいにでっぷりとした体型に変わっていった。家の中に確固とした立場を築いただけでなく、町内会や、若い母親たちの集まりである御子安講などにも出向き、存在感が目立っていた。

悪さをする近所の子供も、躊躇(ちゅうちょ)なく大声で𠮟って、恐れられた。その一方、夫が戦死して幼児を抱え生活に困っている女には、古着や、畑で採れた野菜を気前よく分けてあげる度量の広さを見せ、内風呂にも入れてあげた。

「貧乏している時は、誰でも頼りなってよ」

つねのあけすけな物言いも、皆から笑って受け止められていた。

時折出かける大通り商店街にも顔が利くようになり、店の奥の小上がりには大声で話し、茶をご馳走になるつねの姿が見られた。安定した生活の目途がついてきたつねにとって、悩みは、剛三と一緒になってから生まれた信吾が病弱だったことだ。

山内先生は、信吾の胸に聴診器をあて、

「心臓に雑音がある」と告げた。

以来、つねは彼の身体に悪影響が出ないよう、兄姉たちに、

「信吾に、肝を揉ませるなよ」と厳重に言い渡した。

信吾は不快なことがあるとこめかみに青筋がたち、顔面蒼白となって体を震わせた。つねは、兄姉がちょっかいを出したり乱暴したりしないか気を配り、彼だけには鮭の切り身など、栄養のあるものを食べさせた。

「ちょっと、味見させてくんな」

腹をすかせている兄姉たちが、その周りを取り囲み、指をくわえて欲しがってみても、分けてやることはなかった。

千津が生まれたのは終戦後、間もなくだった。千津という名前は、つねが拝み屋の所に出向き、相談して名付けた。

兄姉たちは戦時中に警報が鳴るなか、つねが大きな腹を抱え防空壕に入るのを見て、

「おっ母ちゃん、赤ん坊はもういんねえよ」と言った。