白川郷が秘境と呼ばれていたのは、人が行くことも来ることも出来ないほど不便な場所にあったからだ。江戸時代でなくても、昭和になってからでも、この村に行くのは容易なことではなかったのだ。
『ホキ』という地名があちこちに残っているが、ホキというのは漢字で書くと『歩危』で、文字通り歩くのが危ない場所のことだ。
荻町区に行く手前には「福島歩危」という場所があるが、岩壁を這うように歩いて、恐くて「睾丸縮む」といった記録が残っているほどだ。
荻町区を通り越して、さらに北に行けば「内之処歩危」といって福島歩危と変わらない難所があったが、今は集団離村して湖底になっている。
そこの少し北には「有家ヶ原(うけがはら)向かい」という歩危道があり、谷底に落ちて死んだ人たちの霊を供養する仏像が今も国道に残っているという怖ろしさだ。
それら絶壁の危険な道はさらに激流庄川にぶち当たれば行き止まりになる。そうなると、今度は絶壁の道から向こう岸の絶壁の道まで、橋などないから籠で渡らなければならない。
藤蔓で編んだ綱に籠を吊るして激流を渡るのだ。途中で落ちた人の記録もあるし、途中で籠が止まってしまった人の話も残っていた。その人は、なんと籠を降りて、吊るしている綱にぶら下がって向こう岸までたどり着いたということだ。
人が普通に住めるような場所ではない。どうしてそんな不便な場所で塩硝を作っていたのかと言えば、火薬は武器だから人に知られないために、これほどの秘境で作らせていたということだ。